2012/05/30

学力は本当に低下しているのか

今日の教授会でも話題になっていたのだが,大学生の学力低下問題が指摘されるようになって久しい.

ところで,本当に大学生の学力は10年前,20年前と比べて低下しているのであろうか?

実は私はこのことにけっこう懐疑的である.

もちろん,ある一面において「低下している」と言うことはできるのだと思う.

例えば,私が受験生だった頃の18歳人口は文科省の『日本の将来推計人口』によれば,168万人ということになっている.それで,大学への進学率が53.7%である.

ここ3, 4年の18歳人口は120万人前後で,大学への進学率が60%前後で推移しているということを考えると,大学への進学は随分と簡単になったのであろう.

おそらく私の時代には考えられなかったような層の学生が国立大学に行き,私の時代には箸にも棒にもかからなかったような層の学生が名門私立大学の門をたたいているのであろう.

そう考えれば,多くの国立大学の先生が「最近の学生はできが悪い」と思うとか,私大の先生が「全く,最近の学生は」と嘆くのも当然の理である.

このことを問題にしているのではない.

つまり,話題にしているのは,学生を割合別に見て,つまり学生の全体像を見た場合に,私の時代の学生に比べて,現在の学生の水準が低下しているのか否かという問題である.

競争率が高い時代に一定数の上積みの人間だけをつかまえて,「当時は学生が優秀」と主張し,競争率の低い時代に同じ数の学生を同じようにつかまえようとしてもそれは無意味なことである.

仮に,18歳人口の減少に合わせて大学の門戸も減らすことができたとすれば,学生の水準は私の頃と現在とで大差はないのではないかというのが私の印象である.

ケーススタディーとして,世界の学力水準を示す指標として有名なProgramme for International Student Assessment (PISA)を取り上げてみよう.

最新のものでは,2009年のものが取り上げられているが,日本は読解,数学,科学と全ての項目において,OECDの平均値を上回っている.

読解は上海がダントツで556点,それに韓国の539, フィンランドの536, 香港の533が続いている.日本のOECD加盟国中の順位は8位である.

日本のスコアは520で,OECDの平均は493である.

2006年の日本のスコアは498で,OECDの平均が492.加盟国中12位だったことを考えれば,読解力の水準は上がっているということになる.

数学と科学の検証は辞めるが(実はちょっとめんどくさくなった...),それでも全体の得点の順位はOECD加盟国中,日本は8位である.

上海が突出しているのは別として,トップ10に入っている国の間にそれほど優位な差があるようにも思われない.2006年,2003年,2000年の日本ものと比べても20-30点の前後はあるような感じである.要するに,多少の上下はあるのである.

言うなれば,PISAの結果は受験生の予備校模試と似たようなもんで,とりあえず目安として上位グループに入っていれば特に問題はなさそうな感じなのである.

つまり,とりあえずは「学力低下問題」を確立した事実としたい人たちによって,PISAが取り上げられたというだけのことであって,「上がった」「下がった」と言う時の統計学的意義自体は,かなり疑わしいということだけは分かりそうなものである.

それにテストなるものは,常にある種の側面しか取り上げることのできないものであって,それを金科玉条のように扱うことに対する危険性も感じられる.

何が本当の目的なのかイマイチよく分からないが,文部科学省はまたまた教育方針を転換していくようで,結果,現場の教員に過度な負担を与えるということだけは,事実であるようだが.

個人的な見解だが,自発的な学習を進めるという意味でも,中学生段階での「総合的な学習」という試みは悪くなかったように思う.ここ数年の蓄積で,現場の教員の中にもいいアイディアを思いつくようになった人たちが数人いただろうに,そのアイディアを活用する機会がなくなるのは非常に残念である.

アメリカやイギリスといった大学のトップ層の学生と,日本の学生のトップ層を直に見てきた経験から,欧米の学生の主体性と問題発見能力に見習う点は多々あると私個人は考えている.日本では「指示待ち」の学生や若者が多いとされているが,それは他ならぬ教育の現場において,教員の指示以外のことをやってはならない,場合によっては教わっていないことができると罰せられるという現状に問題があるのではないかと思う.

緻密性やオリジナリティ,そして秩序を保つという点において国際的に優れている(少なくとも私は思っている)日本人が主体的に問題を発見し,そして取り組むことができるようになる機会を,「総合的な学習」が与えられる可能性があったのではないか.昨今のゆとり教育批判は,その弊害として,学生や教員から「間違える権利」を奪ってしまったように思う.

教科書に書いてある事項は,「事実」ではなく,試験で問われている知識は「正解」ではない.学生にも教員にも,ある種の結論や主張に至るプロセスを考え,提示されてある以外のルートを辿る権利が本来はあったはずだ.「正解」なるものが設定されてある試験の枠内での点数の増減だけに一喜一憂し,名門とされている高校や大学に受かることだけが優れた学校の評価基準ではない.大学教員が高等学校までの間にまず身に付けて欲しい能力は,既存の知識やデータ,主張をまとめ,それを検証し,考え,自分で何が分かり,何が分からないのかということを言葉や数学を使って表現することができる能力である.知識の詰め込みはそのための手段であって,目的ではない.

少なくとも,子供たちに「お前たちはゆとり世代でバカだ」と罵倒し,教員たちに「能力不足」と喚き倒すことによって,教育の質が向上することはありえないと思う.批判や文句は誰にでもつけられるが,そのことによって得られる優越感と引き替えに,他者に肯定的な影響を与えることはないという事実には自覚的でなければならない.人間とは,罵倒されてやる気が向上するものではないのである.

大学教員という立場から,優秀な学生は昔と同じくらいの割合で存在しているし,忙しい時間の合間を縫って奮闘している幼児教育,義務教育,高等学校,各種特別(支援)学校の教員たちは総じて「いい仕事をしている」ということだけは言わせてもらいたい.

2012/05/28

これが若さか

講義で使うハンドアウトをコピーする印刷室のすぐ隣には就職課のお知らせがたくさんあって,求人情報を見るのもそれなりに楽しい.

いい仕事の機会があると,うちの学生さんたちにいい機会が与えられているというわけだし,できるだけ待遇のいい仕事がたくさんあると嬉しくなってしまう.

まぁ,ちょっと親心のような気持ちなのかもしれない.

例えば,幼稚園・保育園なんてところは,公立でもなければ待遇も随分と厳しくて,額面で月13万円で各種手当てがあまりつかないとか,正直,生活保護よりも待遇が悪いケースが多々あるのです.

中には随分と立派な幼児教育の専門家に育っている人たちもいるので,是非とも彼女たちに自立の機会を与えて欲しいものだと思う.

しかしながら,アルバイトの求人情報ではなく,一応,正式な公的機関の正社員の求人(しかも,教育職である)なのに,求人案内の文章が稚拙なのが何か気にくわない.

エクスクラメーションマークやら何やらとマークを多用したり,「アナタ」とカタカナ記述が混じっていたり,「にんげん力」がどうのとか,そういったことばに,何となく生理的な嫌悪感が出てくる自分に気づく.

いい言い方をすれば,自分が「大人の言葉遣い」に慣れてきたということなのかもしれないけれど,要するに頑固になってきたんでしょうね.最近の,若い人たちの言葉遣いが鼻につくというか.

そういえば,今日も女子大生が使う強意の副詞の「くそ」に不快感を感じていました.ネガティブな意味ならともかく,肯定的な意味で(e.g. 「あそこのケーキがくそうまくて」)使用されているということに違和感ありあり.これは「ヤバイ」を「とてもおいしい」という意味で使うことにも言えるのだけれど.

そんでもって,先週の金曜日は1年生の合宿があって,ちょっと夜に顔を出してきたのだけれど,そこでも分からないことだらけでした.

学生さんたちが自己紹介をしていて,自分の好きな芸能人やら歌謡曲やらを言っていたのだけれど,自分が分かるのは「Mr. Children, 竹野内豊,嵐」でおしまい.後は,何を言っていたのかすら認識できませんでした.まぁ,私は最近までイギリスにいたということもあって,「いきものがかかり」がお笑いグループだと思っていたくらい,浦島太郎な奴なので仕方がないのかもしれない.

それと,昼間に若い女子大生さんたちと話すのはそれなりに楽しいのだけれど,夜に見かけるのはちょっとしんどいですね.なんか,元気すぎる子猫を見ている気分になります.

そういうわけで,一歩一歩年を取っているということを実感している今日この頃なのです.

そんな今日は大学で仕事を早めに切り上げて郵便局に行き,スーパーで買い物をし,ジムで身体を動かした後で,夕食を作る.

炊飯器に白米と玄米を混ぜたのを入れ早炊きにセットして,ご飯ができるまでにおかずを作る.

ほうれん草を軽く湯がいて,隣のコンロでしめじを醤油,酒,みりんを混ぜながらごま油で炒め,絞ってから切ったほうれん草を入れたボウルにしめじを混ぜ,大根おろしを入れて,ポン酢を加えて,ほうれん草としめじのおろし和えのできあがり.

そしてアスパラガスを塩茹でして,オリーブオイルで焼いてから挽いた塩をまぶして焼きアスパラのできあがり.

ゴマ油で豆板醤を加熱し,しめじを炒めたところに水とお酒を加え,中華だしと米酢を加えて塩で味を調え,溶き卵を加えて,仕上げに刻んだニラを入れてニラ玉汁のできあがり.

最後に,豚バラを一口大に切ってから酒と醤油で下味を付け,生姜とニンニクを微塵切りにしたものをゴマ油で炒め,そこに鷹の爪を加えて,豚肉を炒める.さらに味噌,砂糖,みりんを加えて茄子と豚バラの味噌炒めのできあがり.

野菜たっぷりの食事がなんとなく性に合っているような気がするのだけれど,いくらなんでも野菜ばっかり取りすぎという気がしないでもない.

というわけで,明日も同じ献立です.便利なのはいいのだけれど.

2012/05/22

大人は外見に責任を

若い間の容姿は,それこそ生まれつきの生得的な要因が大きくて,何もしていなくてもかわいかったり,かっこよかったり,あまりいい体型ではなかったり,ちょっと間抜けな風貌だったりするのが常である.

ただ,それら若さに任せた容姿は20歳前後でいろいろと崩れてきたり,逆に整ってきたりもする.

個人的な見解なのだけれど,大人は30歳を過ぎたら自分の外見に責任を持つべきなのではないかと思う.

もちろん,好き勝手な髪型や服装にするのはかまわない.個人の自由である.

一方で,自由には常に責任が伴う.

現代の社会的な観念として,例えば,スキンヘッドにサングラス,ピアスたっぷりに髭を生やし,金色のアクセサリーで身を固めているという風貌は,あまり気質には思ってもらえないというか,「怖い」という印象を持たれる傾向にある.

それを自覚してやっているのなら,別にそれはそれでいいと思う.

他にも日焼けサロンに行って真っ黒に焼き,茶髪のロン毛でダボダボファッションの30代が軽薄に見られるという傾向ももちろんある.

本人が分かってやっているのなら,それはそれでかまわないと思う.

ただ,それらの格好をしているのに,他人に真面目に思われたいとか,一途に思われたいとか強要するのは筋が違う.一般的な社会人とされる,例えば黒のショートヘアーに綺麗に剃った髭,清潔感のある服装の人たちと比べて,その手の肯定的な評価を得るには,それなりのハードルの高さを設定しているのだということには自覚的である責任がある.

他にも,ボサボサの髪,手入れのされていない顔,洗濯されていない服装で清潔感がないという人も,男女問わずあまり肯定的な評価を得られることはないであろう.

自分が服装に無頓着で,別にどうでもいいやというのであれば,それはどうでもいいことなんだと思う.

ただ,自分が社会に出て,それなりの職に就いているというのであれば,それなりの格好をしている必要がある.

清潔感のない営業マンに仕事は託せないし,バカっぽい格好の教員はよっぽど賢くなければ信頼は得られないし,ヤクザのような店員に話しかける顧客はいない.

周囲の人間を不安に陥れるような格好をするのなら,そういう格好をしているという自覚が必要不可欠なのである.であるからこそ,入れ墨やタトゥーを入れている人間は温泉など公共施設や各種健康施設への立ち入りを遠慮されているわけだし,子供を預ける教員にも入れ墨やタトゥーが入っていないのが当然あるべき理なのである.

大阪市で入れ墨やタトゥーを入れている職員を処分しようかという話が持ち上がっているが,私はこれにけっこう好意的である.

公務員という立場上,それなりに責任のある決断を下さなければならないこともあるのだし,税金を使う立場にある以上は,信頼が得られる格好をしているのが第一である.

外見は関係ない,中身こそが大事という議論があるのは認めるが,よっぽど懇意にならない限り他人の内面などというものが分からない以上,人は外見で人を判断する.そういう現状がある以上,大人は外見に責任を持たねばならないという事実に自覚的でなければならない.

それをあえて曲げてでも,他人に信頼されにくい風習を自ら取り入れたわけであるから,それを覆せるだけのものがある場合を除き,他人に不安を与えるような格好は慎むべきである.

そうでなければ,一般市民は入れ墨の入った職員を真っ当な人間であると見なすことはないであろう.アウトローの人間に重要な決断を任す必要などない.成熟した市民とは,自己管理のできている大人であると私は思う.

2012/05/18

なんだかな

苦心の大学の講義を終え,教室から逃げるようにオフィスまで戻り,敗北感にうちひしがれていると,

「せーんせ!」

と言う女学生2人がドアの所にやってきたのが分かった.

開けてあるドアから2人が入ってくると,本棚に飾ってある幼稚園で使用したミッキーマウスのパペットを取り出し,まるで子供を扱うかのように私のまわりにつきまとってくる.その言葉遣いたるや,まるで幼稚園児に対するもののようである.

なぜこうも,本場英国仕込みの一人前の紳士に対してこのような扱いができるのかよく分からないのだが,毎年毎年連休明けになると女学生たちの私に対する扱いがぞんざいになってくるのがよく分かる.

また,私に注意を促す学生もいる.

「先生,もう会議が始まりますよ」

「5分前には到着しないと」

「ほら,ちゃんと場所まで送ってあげますから」

だとか,

さらには,

「先生,フードが裏返っているよ」と言って,服装を正す者までも現れてくるようになった.

まだ「先生」という敬称が使用されているうちはいいのだが,最近は私をファーストネームで呼ぶ学生も増殖中である.

一応,授業中はみんな「先生」と呼んでいるし,言うことも聞いてもらっているのであるが,「威厳」という言葉っていったい何なのであろうか.

それに,彼女たちが言うには,私は

「わがままな女の子(たち)に振り回されて,困った顔をしているのがしっくりくる」

人間であるらしい.

しかも最近は,同僚の教職員である中年女性たちが,自分たちに対して女学生に対するのと同じような愛想を振る舞うようにという指導までしてくるようになった.

不幸なことに,私はそういう扱いに慣れてきてしまったためか,それを不当だと意識しないようになってきたような気がする.

これらは,私のような一人前の大人に対する扱いなのであろうか.

2012/05/13

頭がカタい

昨日は最高気温が10度もなく,風も強くてけっこう寒かったです.

そんな札幌ですが,木曜日から「クールビズ」が導入されたそうで,早い段階からクールビズを取り入れることで,節電意識を高めるということが決定されたそうだ.

変なの.

寒さにめっぽう強い私ですら寒いと思われる気温が続いているのに,なんでわざわざ横並び意識を徹底して半袖にしなければならないのかさっぱり分からない.

日本特有の村意識ってやつで,本州の公施設で実施していることは踏襲しようという,頭も身体もさび付いたおじいちゃんかおばあちゃんの決めたくだらない取り決めなのだろうけど,長い人生の間に脳みそをどこかに置き忘れてきたんじゃないだろうか.

うちの本務校でもストーブを焚いていた人たちがいたのだけれど,こんな暖房設備が必要な地域でわざわざ無理をして半袖を着なければならない同調意識を強めることの意味も意義もさっぱりわからない.だいたい,法で決まっていることでもなんでもなくて,慣例でなんとなくみんながやっていることを思考回路抜きで右に倣う様は滑稽で仕方がない.

だいたい,節電意識を高めるというのが主たる趣旨なのなら,暖房を付けなくてもいいような冬の格好をしてくるべきなのではないだろうか.まぁ,上田市長からして思考能力に不自由しているような感じだし,仕方がないことなのかもしれない.

この手の慣例に従うということに人生を賭しているような人たちっていますよね.それが有益でもなく,周囲にムダな労力をかけるだけなのに,本人たちだけが,自己組織の将来を真剣に考えている理念のある人間だという強い強い確信があるみたいですけれど.

まぁ,最後のは単なる愚痴なんですけどね.しっかし,ワガママ言うひとたちに合わせなきゃいけないせいで,毎週毎週月,火,水にくだらない会議で時間を浪費するのにつきあわされる立場の人間としてはたまったものではないというのが本音なのだけれど.

筒井康隆著「文学部唯野教授」の世界はけっこう当を得た作品なんですよね.残念だが,パロディではないと思う.

2012/05/12

石狩紀行 (iv):厚田公園展望台


厚田をさらに北上すると,厚田公園展望台というのが見える.ちょうど案内所兼売店みたいなところと,海岸線を望むやや大きめの駐車場が見えるので,何かがあるんだろうなということくらいはすぐにわかる場所である.少なくとも,ありすcaféのような見落としはないと思う.たぶん.



厚田公園展望台は,プロポーズするにふさわしい観光スポット100箇所を選定する「恋人の聖地」プロジェクトで,平成18年に北海道で初めて選出された場所なのだそうだ.

私のような変わり者からすれば,「プロポーズする場所くらい自分たちで決めさせろや(「ここがいい」とか言われると,絶対にそんな所でせえへん)」という気分になってしまうのだけれど,付和雷同的,和をもって貴しとなす大衆的価値観を太古の昔から育んできた日本人には馴染むものなのかもしれない.

だいたい,非常時にも「みんなやってますよ」と言われると心が動かされてしまうとかいう人たちっていったい...

閑話休題.

とにかくせっかく来たのだからと,徒歩で25分かかるとかいう展望台まで上ってみることにする.

途中で長い階段があったのだけれど,「グリコやりたい」とかいう,とある女学生の提案により,30を過ぎた大学教員と,20を過ぎた女子大生3人の合計4人がグリコ遊びで階段を上るとかいう,傍から見られると困るようなことをしながら展望台まで登る.

それにしても,グリコの普及率は凄いものである.私のような年代と若い大学生,さらには大阪と北海道という土地と時間を乗り越えるという古典の定義を満たしているではないか.ここには何か重大な普遍性のようなものが,あるのかもしれないですね,まぁ.

しかし,グリコ遊びなんてしたのは何年ぶりだろうと思いをはせながら(たぶん,20年ぶりくらいだと思う),学生さんたちと付き合う.まぁ,ノリがいいということなのかもしれないけれど,こんなことをやってしまうので,未だに威厳のない大学教員をやっているのかもしれない.もっと大人にならないといけない.

展望台の上に昇ると,そこには城壁のような建物があり,2台のベンチとハート型の置物がどかんと置かれてある.城壁の真ん中には「誓いのベル」とかいうベルがあったのだけれど,これがなかなか鳴らない.たぶん,潮風に当たって錆がきているせいなのではないかと思う.



それでもって,展望台の近辺の手すりでは,愛を誓って結びあわされているという南京錠があちこちにある.

愛を誓うために南京錠を使う.

うーむ.



なんとなく,お互いの愛を南京錠で結びつけるなんて,束縛の強い恋人同士なんだろうなという気分になりますけれど,お互いの愛を固めるために鍵を掛け合うというのは,健全な関係なのだろうかと私のような人間には思われて仕方がない.

南京錠の願掛けというと,セックス・ピストルズのシド・ヴィシャスを思い起こしてしまいますね.薬に頼らないと保てなかったハイテンションとその危うさに支えられた魅力.

ちなみに,この願掛け用と言っていいのでしょうか,南京錠は展望台の麓の駐車場近くの売店で売っています.ここでラブラブなカップルが(ガイドのウェブサイトと冊子では「アツアツのアベック」という死語が使用されているという話はナイショである),盲目的な状態で,まるでおみくじを買っているかのような体で南京錠を購入し,南京錠に愛のメッセージをマジックペンで書き込み,ないしはプリクラを貼り付けて展望台の手すりにいろいろと思いをはせているわけですよね.扱いとしては,境内に結びつけられているお神籤と同じものなのか.

ということは,この展望台は愛の神が宿る場所ということになるのかもしれない.さすが八百万の神の国である.「何でも神さんや」という態度は,傍から見ればなんといい加減な,と思われてしまうかもしれないけれど,宗教戦争が実際に起こって殺し合いをしないだけ平和でいいことなのかもしれない.

ちなみに,展望台の城壁は階段を使って昇ることができるのだけれど,展望台の上では,大阪万博の太陽の塔のような顔が足場のど真ん中にあります.その中央に立てば,何か得体の知れない妖怪でも召還できるのではないかという気になるのだけれど,特に何も起こらなかったです.

当たり前か.

同行していた学生さんたちは気味悪がって近寄っていなかったのだけれど,私はその真ん中に堂々と立ち尽くしていました.

ちなみに,展望台のてっぺんでは恋人同士の落書きがあちこちに見られます.

「だいだいだーい好き」

とか

「結婚しようね」

とかそういうの(後は書いていて,背中が痒くなってきそうなの).



そうか,恋は盲目ってこういう状態のことを言うんですね.みんな若いですよね.こんなことを書いた恋人たちなんて,みんな不幸になればいいのに,とか言っているとダメですよね.世の中,少子化ですし,頑張ってください.

しかしながら,この手の落書きをする人たちって,あまり頭がいいように思われないのはそれなりの経験則から来ているのでしょうか.「1th Anniversary 結婚してまた来ようね」とか書いてある記述を見かけたのだけれど,1の序数詞はfirstなので「1st」と書きますとついつい思ってしまった私は細かい奴なんでしょうか.思わずアカペンで手直しをして「大学英語教員より」と書いてやろうかと思ったのだけれど,手元にはペンらしきものはありませんでした.残念.

そんなこんなで展望台を降りると,坂道の端っこをまるでキリスト教徒の墓石のような形で様々な俳句が掲載されてあるのが目につきます.思わず,どこかで,「みつを」とかいう号はないかと期待してしまいましたが,特にありませんでした.

ちなみに坂道は急勾配で,桜の木がたくさん植えられてあって,「ベビーカーを引いてきたら危ないね」と言っていた学生さんがいたのだけれど,こんな教育上??なところに小さいお子様は連れてこないのではないかと思われるので,多分,大丈夫なのではないでしょうか.まぁ,南京錠の束に向かって,バーベキューの煙を向けてみたいという気分にさせられたのは否定しませんけれど.

ちなみに,展望台の麓の売店では,我がF女子大学が開発した石狩バーガーが売ってあります.個人的にはできたてのおいしいのが食べたかったのだけれど,できあいと言いますか,ちょっと冷めてしまった形で売ってあります.レンジで温めてくれるものの,何となく損をした気分になってしまう.まぁ,私はファーストフードをあまり食べる人間ではないので別にいいのですが,学生さんたちは「普通においしい」とか言って食べておられました.



ちなみに,こういう場合に若い人たちが使う「普通に」という言葉のニュアンスが分からなくて困っています.この言い回しは私がイギリスにいる間に普及したみたいなのだけれど,veryのような強調の副詞でもなく,「文脈から想定して,ありえるレベルで上等な方」というニュアンスで使用されているみたいですね.無理矢理言葉を補うと「普通に(考えられるレベルで)」という意味なのでしょうか.知らない日本語がけっこうあって,日本を離れていたせいなのか,年のせいなのか微妙な今日この頃です.

それに加えて,浜益の名産手焼きどら焼きというのも食べました.どら焼きは疲れた時に無性に食べたくなりますが,これはあんこよりは皮の部分の風味がいい感じなのではないかと思います.個人的には名産にしたいのであれば,焼きたてを提供して欲しいなと思ったのだけれど.



2012/05/11

石狩紀行(iii):石窯パン&Pizzeria Ripple


そんなこんなで,待ち時間と言われた90分が過ぎたので,ありすcaféから歩いてでも上って行けそうな丘の上にあるPizzeria Rippleに再び到着する.小高い丘の上にある,ちょっと小じゃれたこの店は,入り口の右側が黒い板,左側が白い板という黒と白のコントラストをガラスの扉で仲介してある趣味のいい外装である.店のすぐ隣にはコンクリートがむき出しになっている石窯の姿が見え,累々と薪が山のように積まれてあって,「これからピザを焼くんだ」という気概がどこからか感じられる.




待ち時間は90分と言われたものの,店に着いてからさらに30分ほど待たされたので,結局2時間以上待たされた計算になる.店内はこじんまりとしてあって,きれいな椅子とテーブルが並べられてあって,ガラス張りの壁からは広い日本海が眼前に広がる感じになっている.

この店は,ピザだけではなくて,持ち帰りのパンもいくつか焼いてあったみたいなのだけれど,クロワッサン,食パン,ノア・レザン,フィセルとその全てがとっくに売り切れ.からからになった,パン売り場のそこには,確かにおいしいパンがあったのだという存在感だけがひしひしと感じられる.個人的にこういう職人気質の店はとても好みである.

「俺の作る料理は誰にもマネでけへんで.マネしたかったら,根性入れて修行せんかい!」

というプロ意識っていいですよね.いつでもどこでも誰が作っても同じなんていうファーストフードなんてわざわざお金を出してまで食べようなんていう気にはならない.お金を出して食べるのだから,自分ではマネができなさそうな,それでいて,実際に目にして,食べてみて,「お,これは使える」と勉強させてもらえるような料理を食べたいと私なんかは思う.

というわけで,1時半に到着して遅い昼食にするはずだったこの日は夕方の4時前になってようやくありつけるという感じになりました.注文したのは,シンプルなマルゲリータ,パンチェッタ・アフミカータ,バッカ・シチリアーナの4つ.マルゲリータはシンプルなだけに料理人の基本的な技量を試すのにちょうどいいものだし,アフミカータは自家製のベーコンという文句が気に入ったのと,個人的に一押しだったのがシチリアーナ.ピザにはアンチョビとケッパー,ブラックオリーブが一番合うというのは私の持論です.ちなみに「ケッパー」という文字を見て,一人でケタケタと笑い続けていた学生さんがいました.いったい,何がそんなにツボだったのだろう.




日本にいると,ついついアメリカナイズされた「とりあえず,なんでも載せたれ」とかいう品のないピザが主流になっていて,イタリア人でもないのに「あんなん,ピザちゃうわ(イタリア人の言葉を翻訳するには大阪弁が一番いいと思う.食にうるさいし,やかましいというイメージがあるし,自己主張が強いし,人生楽しんでいる感があるし)」という気分にさせられてしまうのだけれど,この店のピザはとてもいい.

小麦,水,塩,酵母だけを使用して,それをちゃんと熟成させてから,注文を受けてから生地を伸ばして,450℃の薪石窯で焼いたとかいうピザ生地は,本当にヨーロッパのおいしいピザを思い出させる.

「そうそう,ピザってこれこれ」

という気分にさせられる生地は,もっちりとしていて,焼き目が程よく,食欲をそそるシンプルな香りで,すっきりとしていて一気に食べられる代物.

ソースもきちんとトマトソースで,それでチーズもきちんとモッツァレラチーズが使用されてある.プロセスチーズをなんか加工したような「ビューっと伸ばしときゃいいんだろ」とかいう日本のピザ用チーズとは全然違う.

口にしたピザは,トマト,チーズ,生地の香りがきちんと組み合わされてあって,絶妙な風味と感触が味わえます.まさか日本の,しかもこんな北の果ての土地でこんな本物のピザが食べられるとか想像もしていませんでしたが,とにかく石狩市の厚田にはこういう店がちゃんとあるのです.

2時間も3時間も待っていられないという人たちには,ちゃんと持ち帰りというオプションもあって,20-30分程で焼いてもらえるみたいなのだけれど,もし時間に余裕があるのならぜひ店内で食べてもらいたいと個人的には思う.石窯から取り出したばかりの焼きたてピザの味はやっぱり格別だし,店内は内装もきれいだし,風景も素晴らしく,掃除も行き届いていて,とてもくつろげる感じがします.まぁ,くつろぎすぎると,後のお客さんに迷惑がかかってしまうかもしれないのだけれど.

とにかくこの店のピザは随分と気に入って,待たされたのも「仕方がないか」と納得できるような感じです.シェフの男性1人と,レジとホールの女性1人で切り盛りしているみたいなのだけれど,帰り際にはシェフの人に向かってちゃんと「ごちそうさま.おいしかったです」と礼を言って帰る.やっぱり,プロである以上は率直な感想を聞かせてもらいたいだろうし,客に喜んでもらえるのは嬉しいだろうと思うので,私はおいしいと思った店を出る時には必ずシェフに挨拶をしておこうという自分なりのルールを決めているのである.

後続の学生さんたちも笑顔で「ごちそうさまー」と言っていたのだけれど,見るからに元気でかわいらしい女性から喜んでもらえると,やっぱり「この仕事をやっていてよかった」と思ってもらえるのではあるまいか.これからもこの意志を貫いて,おいしいピザとパンを焼き続けてもらいたいものである.

ところで,小さな石窯なんかが家の庭にあるといいですよね.北海道なんかは土地が結構余っている感じなので,自分の庭に石窯の1つくらい置いて,夏場には家族でピザパーティーなんかやってもなかなか楽しそうである.幸いにして,夏場の北海道のトマトはおいしいし,いい小麦も手に入るし,それなりにおいしいピザは作れる土台はありそうな感じである.まぁ,下手に学生さんたちにそんな話を振ると,また結婚の話題に持って行かれそうな気もしてしまうのだけれど.

2012/05/09

石狩紀行(ii):ありすcafé


231号線,通称「オロロンライン」と言います.天売島にいるというオロロン(ウミガラス)から取った名前だそうですが,通り沿いはカモメや鳶をよく見かけます.このメインになる通りに出て,今度は北の厚田へと向かうことにする.

ちなみに,このオロロンラインの特に231号線石狩市内の国道は「愛の道:あいロード」という呼び名も普及させようというプロジェクトが石狩市観光振興計画によって実施されていたらしく,「厚田公園展望台」をシンボルとして,

l   i」市名の頭文字
l   「あい風」厚田区で古くから言われる,幸せを運ぶ海からの風
l   「愛冠(あいかっぷ)岬」浜益区昆砂別の海岸にある岬

3つの「あい」を基盤にしたこの呼び名を普及させたいという意向があったらしい.このプロジェクトには我がF女子大学も関わっていたので,今後はできるだけ「あいロード」と呼ぶことにしたいと思います.まぁ,この決意がいつまで続くのかは分からないのだけれど(かなりヘビーなアップルユーザーの私としては,iRoadという呼び名だけは阻止したいのですけれど).

そんなこんなで,231号線を北上し,厚田区まで入ったところ,ちょうど厚田の中心地の手前辺りの小さな郵便局を越えた交差点でちょいとぐるっと左折したところで,ありすcaféという赤色の小さなロッジのような建物が目につきます.

入り口には,猫の顔のような絵が描かれてあって,「café」というからにはカフェなのだろうかという印象を持ってしまうのだけれど,実は手作りの陶器を売っているうつわ屋さん.




実は石窯パン&Pizzeria Rippleという,ありすcaféを少し上った小高い丘の上にあるピザ屋さんに行きたかったのだけれど,あいにくそちらの待ち時間が90分程ということだったので,予約をした後,ちょうど暇つぶしにどこか近辺に行きたいなという時にこのうつわ屋さんに足を運んでみようかという話になりました.

ドアはきちんと手作りの引き戸だったのだけれど,開け方にちょっとコツが必要で,ちょうど引き手の奥の方を持ち上げるような形で引っ張らないとうまくドアが開かないのだけれど,とりあえずそのドアを「とぉりゃ!」という感じで開けると,白いペンキの内装の手作り感たっぷりのお部屋に招待されることとなります.

お店では,店主でかつ実際に工房でうつわを作っている笑顔のかわいらしい女性が迎えてくれるのだけれど,うつわ屋さんでありながら,紅茶や珈琲を支給してくれるとかいうちょっとしたカフェ.飲み物は,手作りのカップで給仕してくれるのだけれど,苦みの程よい珈琲や,女性ウケのよさそうなイチゴジャムを入れた紅茶なんかを出してくれたりします.

実はここのうつわは全て,厚田の粘土を拾い集めて作っているそうで,どれもこれも味があってとてもよい感じです.私は焦げ茶色のカップとそれを載せる器に興味が沸いたのだけれど,同行していた学生さんたちは,明るい灰色のマグカップが気に入ったようす.どうも,所々に見られる斑点がかわいらしく見えたそうで,この手のかわいらしさに気づく感性の鋭さは若い女性ならではのものだなと感心してしまいました.

この店の看板ネコはチャゲという19歳になるお婆ちゃんネコなのだけれど,やはり体力的に厳しいせいか,寝ている時間が随分と長いご様子.実はあまり人に触られるのに慣れていないらしく,人に近づくことはあるものの,人に直接触れる機会は滅多にないらしく,下手に人が触ると怒ってひっかきますよという注意をされたのだけれど,同行していた学生さんの一人にえらく懐いてしまって,自分から頬を膝につけて眠たげな眼をこすりこすりという仕草を見せていました.うーむ,過小評価すべきでないのは,うちの女学生の魅力といったところなのかもしれない.

この小屋は元々は廃屋の暗いうらぶれたものであったらしく,それを店長さんが一から手を加えて綺麗に改修したものだそうで,なんだかその手作り感がヨーロッパの家の雰囲気をじんわりと滲ませていたような感じでした.概観はかわいらしいうすピンク色だし,店内はそこにいる人たちの心を和ませるような白いペンキで,ところどころに焦げ茶色の板でテーブルや椅子が細々とコーディネイトされ,さらには細かい棚があちこちにあり,その一つ一つに手作り感たっぷりのアクセサリーや人形が嫌みのない程度に鏤められてあって,その内観はまるでヨーロッパの家の中にいるような雰囲気がたっぷり.

棚にしている机は基本,厚田の海岸に打ち上げられた流木で,しかも支柱になる枝やカーテンレールは折れた桜の木の枝を使用してあるという,とことんまで厚田産に拘っているという代物.しかも,部屋に立てかけてある時計は,厚田丸という漁船で使用されていた昭和29年のねじ巻き式というレトロなもの.でも,ねじ巻き式の時計とかそういうものって,なんとなく自分の中にある「男の子」の本能のようなものが燻られる気分があってとても気が惹かれる.




元々は廃屋だったので,部屋に入っても特に何の色もない薄暗い雰囲気だったそうなのだけれど,白いペンキをケーキ生地を平らにする時に使うヘラで塗っていくことで,なんとか部屋一面を真っ白にしたという店長さんの苦労話なんかも聞くことができました.しかしながら,実際にイギリスのラブリーな家に住んでいた私の目から見ても,十分にヨーロッパの家の一つと言っても差し支えのないきれいな出来映え.こういう自分の店を全て手作りで仕上げるということにも,個人的に興味が惹かれてしまう.自分も,家を買うぞという気概ができた時には,こういうきれいなデコレーションの家に住んでみたいという気はけっこうありますね.

それで,ソファーに腰掛けて,雨上がりのちょっとひんやりとした外の風景を窓から覗いていると,なんとなく自分がイギリスに帰ってきたかのような錯覚に陥ってしまう.時間の流れがゆったりとしていたイギリスでの感覚をなんとなく身体が思い出している感じがあって,自分の頭の中にある言語チャンネルが日本語に設定されてあるのがなんだか不思議に思われてしまう.そのうち,英語が口をついて出てきそうな感覚すら出てきそうである.これで暖炉の火と,エールビールにスコッチ,キリッと重くて辛口のワインなんかがあると,ちょっとした帰省気分になれるのではあるまいか.日常の些細な雑務で「あーでもない,こーでもない」とか,しょうもない議論をしているのがなんとなくどうでもよくなってくる.って,大学の教員がそんなことを言っていてはいけないのか.たぶん.

そんなこんなで,こんな厚田みたいなところで,90分も時間を潰せなんてどこで何をすればいいんだかと思っていましたが,ここのカフェというか,うつわ屋さんでのんびりしているといつの間にやら90分は経っていたのです.きれいなうつわで飲み物を飲んでいると,そのうちうつわが欲しくなってしまいますが,あいにく残っていたカップは1つだけ.私も買って帰ろうかと思っていたのですが,同行していた学生さんの1人が買いたいということだったので,学生さんに譲る.まぁ,車のある私はまたの休みにでも来ればいいだけの話だし.

というわけで,基本的には喫茶店ではないのだけれど,また一学期の仕事が一通り終わった頃にでも立ち寄ってみたいという気分にさせられるお店でした.落ち着けて,リラックスできる空間だし,まぁ,カップの1つや2つでも買ってお店の売り上げに協力でもすれば,自分のオフィスに置いておけるカップが補充できるし,ちょうどいいのかもしれない.

2012/05/07

石狩紀行(i):マウニの丘


はまなすの丘公園の辺り,ちょうど半島の形になっている部分は,石狩市弁天町にあたる.「弁天町」という地名を聞くと,大阪出身札幌市民の私は,大阪環状線にあるちょっと大きな駅名を思い出すのだけれど,「弁天町」という地名自体は北海道にたくさんあるようで,他にも,根室市,函館市,紋別市,増毛町にも「弁天町」はあるみたいである.この石狩市弁天町の由来は,石狩が幕府の直轄になった1858年に建立された八幡神社に起因するようです.弁財天の影響力は計り知れない.

 ちなみに,北海道という大陸にへばりつく細長い形状の半島を見ていると,ついついニューヨークのマンハッタン島を思い出してしまうのだけれど,この場所を「石狩のマンハッタン」と呼ぶのは,やっぱりやめておいた方がいいですよね.

 前回(『はまなす×いそこもりぐも@石狩浜』参照)のインタビューでは,営業していない時に行っていたということもあって,「そうだ,営業している時に行ってみよう」と思って尋ねたカフェがここである.はまなすの丘公園の外れ,番屋の湯の裏手にある海岸に面したこのカフェは,確かに車がなければなかなか来られない場所にあるのだけれど,それでも海岸を眺めながら(そして季節になればはまなすを見ながら)ゆったりとくつろげる静かなカフェである.

 車を止めて,一面木造の1階のドアをくぐると,左手すぐに映画『星守る犬』で使用されたハッピーの犬小屋がある.犬小屋はけっこう大きくて,身体の小さな大人なら入れそうな感じがする.まぁ,ごく普通の日常生活を送っている大人が「そうだ,犬小屋の中に入ろう」とはなかなか思わないと思うのだけれど,同行していた学生さんたちが「入れるかな?」とか言って,屈んでいる姿を見て,ちょっと考えるところがありました.まぁ,この学生さんたちは幼児教育が専門なので,子供の心を失っていないという部分は評価してもいいのだと思う.たぶん.

それから2階に上がると,引き戸があるのでそれを開けると,ガラガラガラーンという鈴の音が勢いよく周囲に響く.来客を知らせる音なのだろうけれど,思わず誰かの家におじゃましているという気分になってしまう.同行していた学生さんたちが「おじゃましまーすって言いたいね」って言っていたけれど,なんとなくその気分は分かるような気がする.一面木造のこのカフェは,なんとなくお店に来たという気分ではなく,人が住んでいる広い家に来たという気分になるのである.それで,さらに階段を上って,3階にまで上がるとようやく店内に入ることになる.




 木造の店内の作りは,優しい茶色が広々としていて,それがガラス戸から見える外の風景といい感じに調和している.フロアの中央には出しゃばらない感じのシャンデリアと,ピアノが一台慎ましやかに置かれてある.店内に入ると,「あぁ,ちょっとゆったりとしよう」という気分になるのだけれど,この種の「ほっこり」感覚を味わうことができるのが田舎のカフェの醍醐味なのかもしれない.都会の,例えばスターバックスなんかもそれはそれでいい場所だと思うことはあるのだけれど,やっぱり周囲に人がい過ぎる感じだし,それに次から次へと座席を探す客が来訪してくると,「ぼちぼちのかなあかん」という気分になってしまって,どうにも落ち着けなくなってくる.逆に,自分たち以外に来客が全くないと,それはそれで落ち着かないというか,自分たちだけに店員の注意が向いてしまうことになってしまうので,なんだか申し訳ない気分になってしまう.しかし,この日は休日ということもあって,来客もけっこうあったのだけれど,別に座席がないというほどのこともなく,「ちょうどいい案配」という感じでした.




注文はレジで先に済ませてしまう前払い方式で,メニューはカフェと軽食といったところ.珈琲とお茶各種,それにジュースや抹茶ラテ(&バニラアイス),それにビールやボトルワインなんかも置いてある(飲酒運転,ダメ!絶対!).それに各種パスタにケーキなど.店長のI山さんがいらっしゃる時には,マウニロールというロールケーキもあるはずなのだけれど,現在産休中ということでロールケーキの方はお休み.

ケーキは無添加の手作りだそうで,この日はスフレチーズケーキとガトーショコラを食べたのだけれど,チーズケーキはコクのあるチーズケーキで口の中で暑い日差しの中で雪が溶けるようにとろけてしまう感じで,ガトーショコラも程よい苦みと豆乳のいい風味が口の中で広がっていくという感じでした.単に場所と風景だけを楽しんでいるという感じではなくて,料理も独自のものを提供しているので,わざわざ足を運んでみる価値はあるのではないかと思う.

フロアをよく見てみると,床の間のように切り取られた一角があり,家族スペースのような所もあります.家族連れがその中に入っていたのだけれど,おちびちゃんが小さなバーをくぐり抜けようとしていました.きっと,広い場所をあちこち散策したいのだと思う.さらに端っこの方には,角机が並べられたスペースもあって,窓際で年配の女性が一人,頬杖をじっとつきながら物思いにふけっておられました.




 この店の用途なのだけれど,景色がきれいなカフェということで,デートにも使えそうな感じだし,子連れの家族も居れば,年配の団体さんやお一人様もいるという雑多な感じでした.特別騒がしいというわけでもなく,ロマンチック過ぎて恋人同士でなければ来店できないということもなさそうで,けっこう気楽に来られる場所なのではないかと思います.車さえあれば.

 それで,この場所に来る途中で,「この近辺,どろぼう禁止」とかいう立て札なんかも見かけたのだけれど,車に同乗している人はぜひ目を凝らして見つけてみてください(ヒント:セブンイレブンの近く).「日本全土で,泥棒が禁止されていない地域なんかあらへんやろ」と思ってしまうのだけれど,もしかすると,札幌辺りから「出稼ぎ」に来るような人たちがいるのかもしれない.個人的には,この種の看板やら標語やらは景観を損ねる以外の役割を果たさないと思っているので,この種のムダな看板や標語は全て取り去ってしまえばいいのになと思う.パチンコやら消費者金融のネオンもそうなのだけれど,日本人も景観というものにもう少し注意を払ってもいいのではないかと思う.「この近辺,どろぼう禁止」という標語を見て,「お,そうだ.この辺りで空き巣に入るのは辞めよう」とか考える泥棒候補が本当にいるのなら,ぜひとも会って,話を聞かせてもらいたいものである.

2012/05/02

好きなもんは好き

この休暇は言語学に集中しているのだけれど(依頼論文に手をつけていなかったのと,最近は本務校で不毛な雑用に追われているので).

集中して論文を読んで,文章を書いていると,脳がグタッと疲れるのがよくわかる.

だいたい,普段はこの辺りの「筋肉」を使用していないし.

そういうわけで,頭だけが疲れると身体も使いたくなるので,程ほどに身体も動かし,という生活をしている.

なんだか,留学していた頃の平日のような感じである.(それで,頭が向こうにいたときに戻ったせいか,買い物中に人にぶつかりそうになった時に,思わず「sorry」と言ってしまった.脳内チャンネルが英語に変わっていたらしい)

それと,本屋さんの前で,村上春樹さんの1Q84がとうとう文庫化されたということを知り,とりあえず第1巻を買う.

きたきたきた.

愛読者ならもちろん,発売されてすぐのハードカバーを買っているのだろうけど,ハードカバーは高いし,何よりかさばるのが好きではない.

文庫本が好きです.

とても.

ハンディーで,手に収まる感覚がいいし,カバンにも,その気になればポケットにも収納できるのがいい.いつでもどこでも読める気軽さと,文庫本を持ったときの感覚というのが私にはツボなのである.

残念だが,ペーパーバックでもこれは無理である.(だいたい,ペーパーバックは紙質が悪いし,大きさも中途半端)

片手で持てる適度な厚さで,栞代わりの紐がついてあるのがいい.その点,新潮文庫はよい.とてもよい.

最近はiPadを活用しているおかげで,電子書籍に触れることが多いのだけれど,それでも文庫本は文庫本で買っておきたいものである.まだまだ紙の本も買いまっせ.

というわけで,1Q84はディーラーでタイヤ交換中(スタッドレスから夏タイヤに代えたのだ)に読み,今は就寝前にウイスキーのロック(最近は安いし,味もいいしということで,ブラックレーベルかシーバスリーガルばっかり飲んでいる)を片手に読むのが楽しみなのである.

アルコールが身体に染み渡る感覚と,言語学で疲れた頭に程よく入ってくる力の抜けた文体に物語の中に引き込まれると,

「うん,これだ」

という感覚を感じる.

イギリスにいたときには,時々「村上春樹をオリジナルで読めるなんて羨ましい」と言われることがあったのだけれど(この業界の研究者はけっこう読んでいる),それは確かにそう思う.

実に分かりやすくて独特な比喩,全然小難しくもない文体なのだけれど,それでも深く大きな闇と謎のようなものを掴ませようとする,ストーリーテリング.

頭脳をそれほど活用させているわけでもないのだけれど,肝心な部分はきちんと活動しているような感覚を,村上作品を読んでいる時には感じます.

まぁ,こういうのは人それぞれだし,村上春樹さんはやたらとアンチが多いのは知っているのだけれど(今の同僚さんにも,村上春樹の名前が出ただけで,声を荒げる程に嫌う人がいます.けっこうびっくりした),私には好きなもんは好きだしねとしか言えませんね.

1Q84は書評も情報も極力入れないようにしていたのだけれど,けっこういいですね.比喩の切れ味も良いし,2つの物語の同時進行の形は世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランドを思い出してなかなかよい感じである.若い頃の勢いたっぷりの作品もいいのだけれど,最近は円熟味が出てきた感じでいい味がする.

というわけで,しばらく本務校の仕事は忘れることにします.どうせ,来週からはくだらない会議が目白押しなんだし.

ちなみに,今日の夕食は10分ちょいで全てできちゃいました(鯖の生姜煮,冷や奴とミョウガ,インゲンのゴマ和え,トマトとサラダ菜のフレッシュサラダ,作り置きのなめこと三つ葉の味噌汁).妙に手抜きをしたような気分になるのだけれど,まぁ,いいか.時間かからなかったんだし.