2013/11/24

言葉でコミュニケーション

単なる印象論なのだけれど,最近の若い人たち(20歳前を想定)の傾向として,表面上は優しい,人の気持ちに踏みいってこない,自分の意見を表明しないというのがあるように思う.

ある意味では諍いを避けるためのコミュニケーションスタイルを身につけているという評価も出来るのだけれど,一方では最初から自分たちと価値観の合わない人たちとのコミュニケーションを拒否しているようにも思える.

彼らはわりと早い段階で,携帯電話という個人と個人を結ぶコミュニケーションツールを手にして育ってきているので,その手のツールを使いこなす技術には長けている.

メールだろうが,SNSだろうが,言葉を使ったコミュニケーション技術を利用してきているわりには,それらの使い方が巧みであるとは到底思えない.

それは,彼らのコミュニケーション形態が「同調」というスタイルで固定化されてしまっているからに他ならない.

男女差や年齢差もあるけれど,多かれ少なかれ,人は他者から同意を得ることに快感を覚える生物である.その種の傾向は,幼い子供たちと喋れば一目瞭然である.

twitterやline,メールなんかで誰かがつぶやいたことに関して,それに同意し,共感するということこそが彼らのコミュニケーションのやり方なのである.

そこには,異なる価値観が入る余地はない.外部の人間が彼らの「つぶやき」なるものを読んでみても,さっぱり理解できないというのがその証左である.

自分たちのグループのみで通用する言葉や絵文字のみで会話という名の同調行為を行っているので,自分たちとは異なる考え方や価値観を持っている人たちの存在は想定していないわけである.

そういった存在は無視することによって,常に自分たちの同調圧力に屈しない者たちの存在を受け入れないまま育ってきてしまっているのである.

その種の成長の仕方は,諍いを回避することができるものの,自分たちとは異なる考え方をする人たちとのコミュニケーション能力が養成されないまま大人になるという危険性もはらむことになる.

自分たちとは違う考え方をする人たちとコミュニケーションを取る場合,人は言葉(ないしは数学)という論理を媒介させる道具を駆使することになる.

時間と空間を超えて,他者とコミュニケーションを取る場合には,文章展開に論理がなければならないし,いろいろな想像力がかき立てられるようにできるだけ多くの具体例を頭に描かなければならない.

また,自分の思考回路を他者にたどってもらうための論理展開・思考展開を適切に組み立てねばならない.

そういった他者とのコミュニケーションは知的負荷を伴うため,めんどくささも伴うし,多くの誤解も招くし,決して心楽しい行為ではないのである.

他者とのコミュニケーションにおいて,多くの場合に対峙しなければならないことは,相互理解ではなく,コンフリクトを乗り越えるための妥協点を見つけることである.

受験生や大学生の文章を見ると,彼らはまるで金科玉条のように「異文化理解が大切,相互理解が大切,コミュニケーションが大切etc」という文面を,その意味も考えることなく書いていることに気づく.

彼らの文章展開(そこに論理はない)を大まかに要約するとこうである.

「○○で,海外の人たちと交流する機会を持ちました.そこで,私は異文化理解の大切さと絆(「キヅナ」とカタカナ表記になることも多い)の重要性について学びました」

というものである.読んでいて辟易するし,またかという気分になる.

それはまるで,できの悪い学芸会の水戸黄門を見せられたようなものなのだ.「はいはい,印籠を出しとけばいいんでしょー」という感想を持ってしまう.

彼らが高校という場所で,この手の内容のない文章をしこたま書かされていることはわかっている.そういった指導が指導要領にあるからなのか,教師の想像力が決定的に不足しているのか,単にいつまでたっても学生が書き続けてくるからなのか私にはわからない.

はっきり言えることは,基本的な思考力の作法が身についていない,また,文章を書くという行為が基本的には他人に同意してもらうことではなく,自分と異なる考えの人間に自分の思考法とそこに至ったプロセスを提示することであるということが身についていない人間には,異文化理解など到底及びもつかないということである.

自分の考えを,その理由も含めて自分の言葉で書いたという文章を1つでも多く読みたい.

これから大学生になる人たちには,そういった能力を身につけて欲しいと切に願う.

2013/10/12

教育を「再生」しなければならないという嘘

教育再生会議において,今後,国公立の大学において,二次試験を原則的に廃止し,面接など,人物評価を加えて合否を判定していくetcというニュースが結構話題になっている.

面倒なのだけれど,教育に携わっている立場の人間がどのような見解を持っているのかを表明する必要もあるかと思って,ここにちょっと記述する.

まず,面接やら,クラブ活動やら,ボランティア活動やらといった項目を評価することの意義が,私にはまずわからない.

面接だの,人間力だのといった判定基準はAO入試という形で既にいろんな大学で取り入れられており,その入試形態を取り入れた大半の大学においてAO入試で入ってくる学生の質が大変低いということで,一応のコンセンサスは得られたのではなかったか.

なんだったのであろうか,今までの議論は.

そもそも面接の数分で人の人格などわからないだろうし,そもそも面接をする側の大学の人間に人を見る能力があるのか,そもそも人が人を評価する権利と能力があるのかといった根本的な問題もある.

大学入試が仮に人間価値審査コンテストになってしまえば,より偏差値の高い大学に合格した人間に人間的価値があり,低い大学の人間には人間的な価値がないということを認めてしまうことになるが,そんなこと,できる人間がいるのであろうか.

人の評価なんて千差万別.それでよいではないか.

客観的な判定基準なんて必要ないのである.

それと,「学力ではなくてetc」という見解もよくわからない.

要するに,財界では,聞き分けのいい奴隷がたくさん欲しいから,早い段階で効率の良い奴隷を大学で養成しなさいということなのだろうか.

それなら,この種の方向転換の目的はよくわかる.

ただ,申し訳ないが,大学という場所は本来,学問をする所なのである.

教育再生会議などという名を名乗って現場に乗り込んでくる限りは,その程度のことは深く認識した上で議論しておく必要があるのではないか.

現在のメンツを見る限り,どうも再生会議のメンバーの選抜理由がよくわからない人が多い.

だいたい,佐々木喜一なんていうイオンド大学(ディプロマミルという詐欺行為を行っていた有名な大学)の名誉博士号を持っている人間が再生会議の一員なのだから,その中身は推して知るべしである.

要するに,今の議員さんに利益をもたらす(この人は下村文部科学大臣のサポートをしている)人と,適当に聞き分けの良い有名人を集めてきただけに過ぎないのである.

教育の現場に,教育の原理を理解していない人が立ち入っても碌なことはない.石原元都知事にボロボロにされた東京都立大学や,現在ひどいことになりつつある大阪の公教育を見れば一目瞭然ではないか.

なぜかよくわからないが,教育という現場は「荒廃し,腐敗しきっており,その再生には専門家以外の視点が必要だ」というコンセンサスが大衆の間でなんとなく作られているような気がするのだが,気のせいなのだろうか.

教育というものが,わかりやすくて,実効性があって,それでいて誰もが興味を持っている分野だからくる誤解なのかもしれない.

「教育再生」と銘打つからには,現在の教育が過去の教育に比べて質が劣っているということを示さなければならないが,誰一人その手の問題点の指摘に成功している人はいない.

「現代の子供たちは,学力が低く,モラルがなく,不抜けている.これは,教育の質が低下したためである」

というのが,再生会議設立の趣旨であるようだが,私の知る限り,現代の若者が突出して過去の若者に劣っているということはない.断じてない.

学力が低く思えるのは,単に過去と比べて競争率が低下しただけのことであり,優秀な学生の層の割合は決して減ったわけではない.総数で過去の優秀だった学生と比べるのはアンフェアである.

それに,現代の若者は非常にモラルが高い.これは凶悪犯罪を犯す人たちの割合が,団塊の世代が若かった頃に比べて激減しているということからも明らかである.

単に,昔は凶悪犯罪を犯しそうな人は,外見から判断がしやすく,現代は,外見が人畜無害に見えても凶悪犯罪を起こすことがあるという「わかりにくさ」という怖さがあるという違いがあるだけのことである.

不抜けているetcという見解も悪くはない.昔みたいにすぐに暴力に訴える下品な人たちが減ったという評価を下すことも可能である.単なる印象論で申し訳ないが,今の若者は,自分が傷つくことを恐れる一方で,他人を傷つけることをあまりしないようになっているような気がする.

それはそれで,悪くはない話なのではあるまいか.

となれば,教育を「再生」するという理由がそもそもないということになる.つまり,教育を「再生する」という物語は単なるイデオロギーに過ぎないという結論が下せるということになる.

結論を述べる.

政治は教育の中身に介入する必要はない.いや,してはならない.

また,大学はアカデミズムを追求する場である.

そのことを念頭に入れていない人が,最近あまりに多すぎる.

2013/09/29

階級差

実は普段の買い物は,職場の近くのA木スーパーという格安のスーパーに行くことが多い.

いろいろな品を安い値段で置いてあるのはいいのだけれど,さすがに品はそれほど「いい」ということはない.

正直,ニンジンなんかは腐っていることが,ゴホゴホ...

まぁ,野菜が基本的にわりと安めで,肉と魚介類もけっこう安いし,帰り際に立ち寄るのに悪くない場所にあるので結構買い物に行っている.

しかしながら.

格安のスーパーなので,正直,客層の社会階層はちょっと低い感じです.

駐車場の車は,古いのだとか,軽自動車が多いし.

お客は,主婦の人たちが多いのですけれど,着ている服がよれよれで,髪が茶髪でハリがなく,パサパサ.まぁ,なぜか,財布はヴィトンが多いのですけれど.

お子様たちもあまり行儀がよろしくなく,店内を騒ぎまくって走り回っているのはごく当たり前で,ひどいのになると,チェックアウト前の商品を開け出すのもいる(アメリカとか韓国ではよくある風景だけれど).

店員さんも基本,あまり愛想はよくないし,それに仕事のやり方もあまり「てきぱき」とした雰囲気が感じられない.

まぁ,そんなところです.大阪だと,スーパーT出を想像してもらえればわかるのではないかと.

一方で.

実は自分もよく知らないで今の住まいを決めたのだけれど,一応,この近辺は名古屋の高級住宅地の一角なのだそうです(初めて来た時から静かで心地よかったわけだ).

なので,家から歩いて行ける距離にあるちょっとしゃれたスーパーに行ってみると,先ほどのスーパーとは風景が一変する.

まず,駐車場に泊まっている外車とレクサスの割合がとても高い.(ベンツ,アウディ,BMWが多い)

まぁ,駐車場のスペースは悪くないのだけれど,ちょっと狭いのが難点である.なぜか,女性のベンツドライバーが多く,駐車にやたらと時間がかかるのがちょっとした悩みの種.それで,ちょっと駐車場内が混雑してしまうのだ(車体がでかくて運転が難しいのだから,わざわざベンツにしなくてもいいのに,と思ってしまう).

店内は雰囲気がまずきれい.それに,品物もいいのが多い.

多少,値が張っている感じだが,それでも手が出せない程でもない.一人暮らしだし,正直,ここで買い物をしても,前述したA木スーパーと月の食費で2000か3000円くらいしか変わらないと思う(たぶん).

客層も雰囲気が良い.

まず,身につけている服装がしっかりしているし,それに子供たちがちゃんとしつけられている感じである.

多少は動き回るけれど,全力で走り回ったり,叫び回ったりしていることはない.

それに,なぜか,若い女性にきれいな人が多いような感じである.お嬢様というか,雰囲気がいいというか.(ちょっと雑談しただけだが)

これが,名古屋嬢というものなのだろうか.

小さい頃は社会階層なんて気にもとめていなかったのだけれど,世の中,こんなものなのかもしれない.

まぁ,日本は欧米ほど極端な格差があるわけでもないのがいいところだったのだけれど.(適当なところで格差は止まっていてほしいものである)

2013/09/12

そして翌日

見事に肩が顔の所までしか上がらない...(イタタ)

それで,足がやや筋肉痛(まだ2日後には来ない).

それ以上に,身体の疲れが...(程よい疲労感を通り越している...)

小さい頃から馴染んでいること

えと,今日は一年生のガイダンスがあったので,ちょっと喋ってきました.

一口に「一年生」とは言ってみても,前任校と違って,350人くらいの学生がいるのです(前任校では一学科80人定員だったので,規模が違う).

というわけで,大教室で,多くの学生さん相手に喋る.

今までは,K塾で喋った200人くらいが一番多い聴衆だったので,もしかすると,人生で一番多い聴衆を相手に話をしたのかもしれない.

ちなみに,ガイダンスとは言っても,40分喋るところを20分で切り上げつつ(だいたい,「教師」という人種は無駄話が多すぎるのだ),いろいろと漫談で場を盛り上げることにもそれなりに成功した.

一方で,伝えなければならない情報は確実に伝えたので,それはそれでよかったのだと思う(たぶん).

今時の学生さんたちは,何か言いたいことがあると,すぐにtwitterやfacebook, Lineといったメディアで情報を共有したがる特徴があるらしく,本日の私のトークもかなり話題にされていたそうである(ちなみにtwitterは見せてもらったが,あれやこれや反応が見られたので結構おもしろかった).

まぁ,「死ね」とか,悪口を言われていなかったのはいいですよね.これだけ人数がいると,何もしていなくても無性に嫌われるということがある(はずな)ので,そういったネガティブな発言が自分の耳に入ってこなかったのはよかった.

ガイダンスが午前中に終わり,昼食と幾ばくかの書類仕事を処理して,その後,誘ってもらっていた大学の野球部の練習に参加させてもらってきました.

楽しかった!

ボールを投げるのも,捕るのも,一つ一つの動作が楽しいし,グラウンドに出た時に感じる雰囲気を堪能していると,自分が若かった頃のことを思い出す.

もちろん,現役の頃のような動きは全然できないのだけれど,30代中盤の中年とは思えない俊敏な動きを披露して,現役の選手たちの中に混ぜてもらいました.

自分は,言語研究に没頭するまではずっと野球をして生きていきたいと思っていたので,今日は本当に楽しかったです.まさか,言語研究と野球を両立させる道がこの世に存在していたなんて(少なくとも,大学の体育会の野球部の練習についていく准教授なんてものは,日本全国探してもいないのではあるまいか.「体育学」の専攻の人たちを除いては).

それと,身体を動かした後は,妙に頭の回転もいいことに気づきます.実は,論文を書くと決めた日にも,自分は「バッティングセンター休憩」というものをとるようにしているのだけれど,やはり小さな頃から,「野球をして,勉強をする」というサイクルが身体の中に染みこんでいると,野球をすることによって,脳内が活性化するのが本当によくわかります.

身体を動かすと,脳の働きもよくなります.これは間違いない事実だと思う.

というわけで,今日は体調も,脳の働きもすこぶる快調でした.今後も,時間を見つけて若い人たちとたくさん野球をしていきたいなと思います.それに,硬式球を扱えるのも後数年になってしまうだろうし.

ボールを投げて,捕って,打つ感触の気持ちよさを考えると,自分が男に生まれてきて本当によかったと思う.



まぁ,顔が写っているわけでもないですし,写真を披露させてもらいます(マネージャーさんに撮ってもらった).これはシートバッティングで,頼まれたのでピッチャーをしているところ.スライダー(カーブかもしれない)は封印して,一応,ストレートだけを投げました.ただし,足腰が弱まっているせいか,時々体重が乗らなかったり,指先に力が入らなかったりするので,自然とチェンジアップのような球筋になってしまうこともしばしば.

しかし,時折,体重が乗ると,それなりの球がいくので,それはそれで楽しかった.

他にも,ノックやバッティングにもフルで参加させてもらいました.いやー,いい経験でした.今度,試合にはスポーツドリンクを持って駆けつけます.

ところで,大学教員に選手登録はできないのだろうか(私は留学に行ったので,あと2年ほど,大学野球連盟に登録し直す資格があると思うのだが).

2013/09/06

品のない話(五輪招致について)

東京五輪 優勢一転 原発汚染水問題に質問集中も準備不足露呈

2020年度のオリンピックがどこで開催されるのかが,あと2日で決まる.

私の実際の生活の中でオリンピックが話題になることはないのだが,メディアではいろいろ放映されているようである.

自分の全くの個人的見解を述べれば,オリンピックが生で観戦できる可能性ができ,世界中の著名なアスリートが日本に結集する機会があるのであればそれはいいことなんじゃないかという感想である.

祭りの機会が出来るし,経済も刺激できるのだから,それはいいことなのだと思う.

しかし,どうも「ぜひとも東京に!」という気分になれない.

それは現在の東京にオリンピックを招致する資格がないからなのではないかと思うからである.

上記リンクのニュース記事を見て,その感覚がわかったような気になった.

今回,東京がオリンピック開催地に選ばれないかもしれないというマイナスファクターになるものは,なんといっても原発の汚染水問題である.

それさえクリアできれば,マドリードにもイスタンブールにも負ける理由はないと思う.

ただ,東京五輪の招致に関わっている人たちにとって,この種の汚染水問題というのは,「人ごと」という認識でしかないということが,彼らの言葉の端々に感じられる.

「福島はともかく,東京は...」

「政府が470億円を出して除去することを決めた...」

自分が海外の遠いところにいたとして,彼らの発言はどのようにうつるであろうか.

距離感や土地勘がなければ,そもそも福島と東京との関連がわからないし,それに福島が一段落したのかさえわからない.

そもそも普通に日本で暮らしている我々の大半に,福島の現状が知らされていないのである.

もしかすると,反原発団体の人たちが言っているように事態は収束できないほどに悪化しているのかもしれないし,これまでは嘘ばっかりだったけれど意外と東京電力が言っていることはそれほど的外れではないという可能性もある.

とにかくわからない,不安.

これが嘘偽らざる日本国民の大半のコンセンサスであると私は推測する(根拠がなくてすまない).

そもそも現状がわからないのだから,470億円を投入するからといって事態が収束するのかということもさっぱりわからないし,どうやったら大量の汚染水を処理できるのかも専門家ではない自分には皆目見当がつかない.

ということは,日本の五輪招致に関わっている人たちの主張はそもそも何の解決にもつながらないということなのである.

悪意を持った読み方なのかもしれないが,少なくとも私には,彼らの主張は

「福島や東北のことはわからんけんども,少なくとも東京でやる限りには問題ないけん,わしらに五輪を開催させてくれ」

という風にしか解釈できないのである.

おかしな話である.

私が「おかしい」と感じるのは,彼らの主張が単にビジネス上の交渉のようにしか思えないからである.

もちろん,現実主義的な人たちにとって,「オリンピックはビジネスチャンスの一つ.IOCなんざ金にまみれた営利団体」ということになるのかもしれない.

そういった側面があるのは否定しない.

しかしながら,オリンピックや各種スポーツのワールドカップには,スポーツの形をとった代理戦争,経済興行といった側面の他に,他国,特に普段つながりのない国やお互いなるべく関与したくない国と関わりを持ち,ある特定の地域の魅力をアピールするという平和の祭典としての側面も少なからずあるはずである.

EUやアメリカと比べればそれほど経済的にも問題を抱えていないことを考慮すれば,海外の人たちが最近日本に対して持っているイメージは「震災・原発」の2つであると思う.

震災から立ち直りのきっかけを見せ,原発事故にも対処し,東京は相変わらず平和なメガロポリスの中心であるということを披露すること.

それこそがIOCや他の諸外国に対して見せなければならない姿勢であり,かつ見せることが期待されていたことなのではないだろうか.

五輪招致がビジネスチャンスの1つでしかないという人たちにとって,福島の問題など所詮「人ごと」なのだろうし,彼らの頭の中には,五輪では,競技を実施する箱物,交通機関,東京だけの安全が確保されていればそれで必要十分という認識しかないのであろう.

頭の中でそろばんをはじくことにしか興味がない人たちが主催する「お祭り」には,どうも品が感じられないと私は思う.

2013/08/21

女性の心理について考える

えと,1学期の授業が終わって,その後,しばらく札幌に帰省していました(現在の心の故郷は札幌です).

ここ最近は,普通に暑い夏を体験しているのですが,名古屋は寝苦しいですね.まぁ,大阪もこんな感じだったような気がしますが,札幌でしばらく夏を過ごし,そして今年もちょっと札幌にいると本州の夏の厳しさが身にしみてよくわかります.

前任校にもちょっとお邪魔してみましたが,ちょっとした有名人になった気分になりました.

さてさて.

今日は本当にどうでもいいことなのですが,先輩の女性言語学者と女性の本音について雑談をしていたのですけれど.(参考urlはこちらhttp://labaq.com/archives/50822456.html

女性の意図と言葉の表面上の意味が違いすぎて,そもそも言語学の意味論なんて意味がないのではないかというお話だったのですが,女性の本音をくみ取るなんていうことを考えていると,そもそも文学すらいらないのではないかという意見もありました.

私は3年間も女子大にいたというのに,女性の気持ちのくみ取り方をさっぱりわからないまま移籍してしまったようです(そして現任校も女性の方が多いという).

なんてことを考えている間に,私はちょっとした物語の型について思いつくことがありました.

物語の型というと,ちょっと小難しく聞こえますが,単純に考えてみましょう.

例えば,よくある男性用の物語,特に少年マンガの話を考えてみると,「少年が大きな敵を前にして,数々の障害を乗り越えて成長していく物語 」という型でくくることができます.

我々三十路世代の思いつくところでいくと,機動戦士ガンダム(アムロ,カミーユなどニュータイプと呼ばれる少年たちが成長し,活躍する),聖闘士星矢(星矢たち青銅聖闘士がコスモを高め,成長していく),北斗の拳(北斗の末っ子のケンシロウが成長して,活躍する)など,枚挙に暇がありません.戦闘じゃなくて,スポーツも考慮すれば,キャプテン翼,キャプテン,スラムダンクもこの型に当てはまるし,ラブコメ要素も入るのであれば,タッチも入れて大丈夫かと.

 この種の型が大きく受け入れられるのには,それなりに普遍性があり,多くの男性の潜在的な欲望を主人公たちが叶えてくれるところに共感できる部分があるというのは間違いなさそうです.

というわけで,広く受け入れられている物語の型を分析することによって,その読者対象が抱いている潜在的な願望を顕在化することができるのです.

ふむ.

というわけで,ラブコメというか,女性視点で女性向けに書かれた物語なのだけれど,よくよく考えてみると,ある種の型が存在するということがわかります.

それは,「ヒロインの女性に心を寄せる男性キャラが少なくとも2人はおり,1人は誰にでもモテるような人気キャラなのだけれど,ヒロインに対する扱いがぞんざいで,きまぐれで,優しさというものがほとんど感じられない(しかし,まれにキュンとさせるような行動を取る)タイプ.もう1人が常に自分のことを考えていてくれて,繊細で,マメで気配りができ,優しさも強さも兼ね備えているタイプ.それで,ヒロインは前者に心を奪われながらも,時々は後者にも心が動き,最終的には振り回されつつも前者を選ぶ物語」という型になっているということである(端的にまとめられなくてすまない).

例を取ってみよう.

そもそもサンプルが少ないのであるが(ただし,ここの話については多くの女性から共感を得られたということを付記しておく),映画にもなった「僕らがいた」という話がある.

ヒロインの高橋は,矢野という男に思いを寄せるが,突然連絡がこなくなり,振り回される羽目になる.それで,竹内というこまめに尽くしてくれる人物がプロポーズまでしてくれるのだが,これを拒み,最終的には矢野と結ばれ,めでたしめでたし(になったのだろうか)という話である(少なくとも映画はそういう話だったはず).

現実的に考えれば,これだけ尽くしてくれた竹内くんが兵糧攻め(ヒロインの高橋が会社から疲れて帰ってきたところを,手作り料理でもてなすというシーンがあったのと,長期戦ということに引っかけて私はこう呼びたい)で勝利を収めてもいいのではないかと思うのだが,女性心理としてはこれではダメなようである.

やはり,他人から思われるよりも自分の心のトキメキの方が重要なのであろう(きっと).

この物語の型を分析してみると,とある女性の潜在意識があぶり出されることになる.

それは,「かっこいい男性にときめきつつ,それを追いかけつつも,一方でやはりそれなりにさわやかなイケメン(少女マンガにおいて不細工が活躍する場面はない.ナッシング,ゼロ)がマメに自分に尽くしてくれ,その両者の間で揺れ動きつつ,迷って,困りたい」という心理である.

黒か白か,1か0かで判断することを女性はしたくないのである.「あっちもいいし,こっちもいい」という優柔不断さ,ヤジロベー,均衡の取れたシーソーこそが女性心理の基本なのである.

たぶん.

というわけで,いい加減,いいおっさんに片足を突っ込むお年頃になりましたが,他人の心理ってわからないもんですね.深層心理は理論が決めるとか,そういうすっきりさっぱりしたお話ってないのだろうか.

2013/07/11

複雑な気分

うちの大学では留学の機会が多く,今日はたくさんの留学希望者の面接試験を行いました.

日本人って,本当に英語が苦手なんだなということを実感する機会を得たと共に,なんだか自分が今までやってきたことを否定されてきたような気分になりました.

まず,申請書に英語でエッセイが書かれてあったのだけれど,その内容がとにかくひどい.主語と述語が全く揃っていないものも多いし,だいたい動詞がない文も散見されるし,それにネイティブから見ればおかしな英語を地で行くような文章が多すぎる.少なくとも,この英作文力では,いいところの国立大学の入試は受からない.

それに,Paper-basedのTOEFLで(Paper-basedのものは既に廃止されていますが,Institution毎にある種の「模試」としてETSが提供してくれるので,今でも時々Paper-basedのものが幅を利かせています)500を越えれば「よいスコア」として評価するのも「なんだかな」という気分になってしまう.

面接は英語で行ったのだけれど,リスニング・スピーキング共に貧しい人たちが大半で,びっくりするのが,自分の留学したい先の大学がどの辺にあるのかわからない,そもそも海外への生き方がわからない,単位の取り方を知らない,どんな授業があるのか知らないというのがディフォールトであるということ.

他にも話を膨らませるために,最近読んだ本は何かと聞いてみると,「ない」というのが大半で,「もしドラ」というのを読んだが内容はよくわからないとか,最近気になったニュースはないかと聞いてみると,「ニュースは見ていない」という意見がほとんどで,唯一返ってきた反応が「芸人が自転車を盗んだetc」というだけのもの.

自分のホームタウンや日本の歴史の基礎を説明できる人間なんて皆無に近いし,そもそもどういうビジョンで留学するのかというのがさっぱりわからない.(「夢を叶えるため」とか「英語を使う仕事に就きたい」とか漠然と言われても,それ以上,話が膨らみそうにない)

こんなもんなんだろうか.

世代も違うし,そもそも大学が違うのかもしれないけれど,自分が交換留学というものを経験しているので,その際の試験とのギャップがありすぎて,どうも納得がいかない.

私の頃はComputer-basedのTOEFLが出始めで,Paper-basedのTOEFLもまだ有効スコアとしてカウントされるので,Paper-basedのTOEFLを受けた経験があるのだが,550点なんか問題外だった記憶がある.

そもそも,自分の所属学部の推薦を受けるのなら「640点を獲得しているのが当たり前」と,面接担当の社会言語学のS先生に言われ,620点ちょっとしかなかった私は随分とショックを受けた記憶がある.

なんでも前年に推薦を受けた人は645点あったのだそうで(1つ年上の美人だった.時々授業が被るので話したこともあったのだけれど),その前年も640点は越えていたとのこと.心機一転,留学直前にももう一度受験してみたけれど,スコアは大して変わらなかったと記憶している.

さらに,英語の口頭試験の前に,行き先の大学とその近辺,シアトルの情報やさらに大学の言語学科所属の研究者たちの研究領域や提供されている授業なんかもwebsiteで調べておいたのだけれど,口頭試験では,実際にめぼしい研究者の代表論文数点の内容について聞かれ,論文を読んでいなかった私はその質問に答えられなくて気まずい思いをしたことを記憶している.

たかだか学部生の交換留学に厳しい質問なのかもしれないが,今考えるとそれだけ期待してくれていたということもわかるし,そもそもS先生自体がすばらしい研究者だったので,こういう質問にも意義があったと私は思う.

「私の頃はこうだった.全く,今の若い者は」とか言い出すと,年寄りへの第一歩を踏み出したのだということがわかるのだけれど,でも留学するからにはそれなりの覚悟が必要なんじゃないかと思う.

ちょっと海外で英語の勉強をしてきたからと言って,「留学してきました〜」とかいうのはやっぱりおかしい.それに,自分としてもそれなりに学歴もTOEFLのスコアもあったが,やっぱりそれでもアメリカの授業(大学院含む)についていくのにはそれなりに苦労もあったし,それに知り合いの日本人の多くの英語力にも随分と驚かされた(帰国子女なんかも数人いたが).

これからは1人でも多くでいいから,「英語なんかできて当たり前.問題は海外で何をするかである」という意識を持った学生を輩出できればいいなと思った今日この頃である.

しかし,現任校はどうにも雑用が多い.

2013/07/10

人文系大学教員はドラマの素材になりうるか

半沢直樹という,銀行員を主役にしたドラマの視聴率がいいらしい.

シリアス系の社会ドラマといえば,華麗なる一族だとか,白い巨塔なんかもありましたよね.

ところで,大学教員の世界,特に,人文系の大学が舞台だとどんな話が作れるのだろうか.

「大学教授」という身分にしても,医学部のそれと,文学部や外国語学部の「大学教授」とは天と地の差がある.

ちょっと一部考えてみよう.

白い巨塔は,財前五郎が教授選を勝ち抜くべく,様々な政治的行動を行っていたが,人文系のそれで,その種の政治活動を行っている姿は想像しにくい.

まず,教授になったからといって,棒給表がちょっとよくなるだけの話なので,実は年ごとの昇級と大差がないという問題が挙げられる.

さらに,教授職になってしまうと,学部長,学科長,その他教務や入試関係の長にさせられたり,評議会のメンバーに入れられたり,雑用が増えるという事情があるのである.

研究室の長となって絶対的権力が握れる理系の実験系の先生方と違って,人文系は基本個人事業種なので,教授になっても特においしい思いに預かれるわけではないのである.

むしろ,この種の役職は避けたいものであって,なりたいものではないのである.

よっぽどの変人でない限り,学部長や学科長に進んでなってくれる人がいるのなら「どーぞ,どーぞ」というのが人文系の世界なのである.

責任や事務仕事が増える割に,給料は年間で10万円足してもらえるか,それ以下かというのが平均的な相場なので,誰もやりたがらないのである.

そんなことをしている暇があったら,研究していたいというのが本音なのではあるまいか(これは研究している人たちだけに当てはま,ってこれ以上は剣呑剣呑).

白い巨塔の医学部長をやりたがっていた鵜飼教授とは違うのである.

という事情もあって,教授に昇進できるのにしたがらない人もけっこうな数で存在します.

それに,学会の重鎮になりたいとかいう人も,たぶん,そんなに多くない(と思う).

日本医学界なんかと違って,N本E語学会だとか,日P言G学会の会長になったところで,実入りはない.単に雑用が増えるだけのことである.何せ,そもそも学会の存続そのものの財政状況が危ういのである.

製薬会社が営業で金や機器を回してくれるわけでもなければ,美人の営業がやってきて枕営業をするとか,そんなおいしいことは皆無なのである.いいとこ,書店の販売員さんに手提げ袋と教科書のリスト,それにボールペンとティッシュを渡してもらえるのが関の山なのだ.

というわけで,この種の役職を引き受けてくれる人たちは善意からやってくださっているだけのことであって,権力欲など皆無であると断言できる(と思う).

たぶん,政治活動なんかの入り込む余地はない.

というわけで,白い巨塔に見られたような権力の行方,人事の荒波というものを演出することは不可能なのである.

また,財前五郎は花森ケイ子という愛人を囲っていたが,そもそも人文系の学者は実入りがよくないので,愛人を囲う財力がないというのも問題である.

もちろん,スポンサーもない.

というわけで,新地の高級バーで飲み歩くようなお金もない.

学生時分,私はお師匠さんたちに,坂下(H大生ならわかる用語)に連れて行っていただいたことはあるが,新地まで行ったことは皆無である.

バーなどはせいぜいOルガンという300円のショットバーか,駅前のパチンコ屋の上にある喫茶店で地ビールを奢っていただいた程度のことである.(でも,これで別に満足でした)

となると,残された舞台は学内ということになるが,これも題材がない.

総回診などあるわけがないし(教授の授業に院生や助手が教室まで付き添えばいいか?).

学内の争いでありえるとすれば,雑用の押し付け合い(と無駄に雑用を作るとか)か,「あいつは研究していない」と愚痴ることくらいであろうか.

映える映像にはならなさそうである.

要するに,人文系の大学を舞台にした映像化は,筒井康隆著作の「文学部唯野教授」を原作に映画やドラマが作れるかという問題に限りなく近いものであって,3分コマーシャルにするのが関の山といったところになるのだ.

まぁ,実世界では波乱がない方が気楽でいいのかもしれないけれど.

2013/06/30

授業パターン1つ確立

言語学のイントロの講義を2コマ(同じもの)担当しています.

15回の講義を,4回で形態論,5回で論理学と意味論,4回で語用論,最後の2回で言語獲得と言語の諸問題について扱うという感じ(統語論と音韻論・音声学は別に特別に講義があるので扱っていない).

単純に必修科目の一つということもあって,誰もが言語に興味があるというわけでもないし,それに90分ひたすら延々と教員の話を聞かされても学生の頭には何も残らないのではないかという懸念がある.

それより何より,言語学は専門知識の積み重ねなので,初期の話が頭に入っていなければ,次以降の話が展開できなくなってしまう.

というわけで,こんな感じで講義を進めている.

最初の60分でその回の話題の講義.

残りの20-30分で,その回の講義に関連する演習問題を解いてみる.とりあえず設問に取りかかってもらい,私が教室内で質問を受け付けて回る.

ってな感じ.

話を聞くのが1時間だけだと,わりと集中して聞けるし(聞けない人もちょっといるけれど),それにその話に関わる演習問題がすぐに出題されるとなると,わりと学生さんも話を聞いてくれるような感じである.

それで,成績はこの演習問題の出来で決める予定.ほぼ毎回課題が出ているので,ついでに出席も確認できて一石二鳥である.

最終の試験もレポートもないので,メリハリも利いていていいのではないかと思う.

問題点は,クラスの1つの受講者がちょっと多いので毎週採点をするのがめんどくさいということくらいだろうか.でも,受講制限は40名なので,なんとかなりそうな感じである.この辺は,マンモス私大ではないメリットが生かされているような気がする.

まぁ,こういう形式の講義も悪くないかなと思っている.

2013/06/19

味が濃い

現任校で,お昼は大学の食堂を専ら利用している.

朝から弁当を作るほどマメではないし,それにご飯は温かいものがいいのである(冷たい麺もこの時期はいいのだけれど).

しかし,この地域,関西圏から離れているせいか,いろんな物の味が濃いことが多いのである.

しょっぱい.

麺の汁に醤油が多いのもそうだけれど,今日はB定食で食べた鯖の味噌煮がとにかく塩辛かった.

何せ,赤味噌をドバーッとかけてあるのである(見た目ほどはしょっぱくなかったが,それでも辛い).

さらに,これだけ味噌を使っているのだから,かぶらないように飲み物は吸い物か何かを用意しておいてくれればよかったのだけれど,鯖の味噌煮の味噌に負けるものかという勢いで,赤出汁の濃い味噌汁が添えられてある.

...

こんなん食べてたら血圧上がりまっせ.

思わず,私は坪内石斎の話を思い出した.

坪内石斎は京で名をはせた料理人であったが,織田信長が京から三好衆を追い出したときにそのまま捕虜になっていたのである.

牢に入れられてから,4年目.彼は機会を得て,信長に料理を振る舞うこととなった.

しかし,

「こんなものが食えるか」

と信長の怒りを買ってしまった.

とりあえず非礼を詫び,翌日再び料理を作る機会を得た石斎が振る舞った料理に,信長は舌鼓を打ち,賄頭として取り立てられることとなった.

石斎は当初,京料理を振る舞ったのである.京料理は素材の味を生かし,調味料を使いすぎないことが重要であったが,信長は尾張の出身であったので,田舎料理の濃い味を好んでいたのである.

というわけで,当時から中京地区の料理の味付けは濃いまま,その伝統が受け継がれてきたのであろうと思われる.

関西の薄味に慣れている私には,けっこう厳しいのだけれど.

2013/06/17

アパレルの店員さん

少々,差別的な言説かもしれないけれど,アパレルの店員さんってそれなりに容姿がいいことが重要だと思う.

なぜなら,商品の売り上げに直結するからである.

随分前の話になるのだけれど,札幌で初の冬を過ごす前に服を買いに行くことがあった.

何せ,イギリスからは最小限の衣料品しか持って帰ってこなかったので,寒い冬を迎えるのに必要な衣服がほとんどなかったのである.

学生なんて貧乏だったんだから仕方がない.

というわけで,特別高い服を買う必要もないかと思って,札幌ファクトリーの中にあるコムサのバーゲンをあてにして服を買いに行ったのだけれど,これがけっこう楽しかった.

イケメンで愛想がよく,マメでオシャレな店員さんに相手をしてもらったのだけれど,話も弾むし,フットワークが軽く,いろいろと当を得たサンプルを小走りで持ってきてくれるし,着こなしのアドバイスなんかも的確に行ってくれた.

何しろ,この店員さん自体がかっこいいので,その発言の全てに説得力があった.というわけで,元々まとめ買いするつもりだったので,容易に数点をまとめて買うことができた.

さらに,この店員さんはえらく記憶力がよくて,半年以上経った後でまた買いに来た時にも顔やら何やらを覚えてくれていて,話も弾んで,それでもってまたまたいろいろと購入する羽目になった.

しかしながら,十分に満足感を得て買い物を終えることができました.残念ながら(?)既婚者なのだそうだが,こういう男性ならきっと女性の人気も高いのであろうというのは想像に難くない.男の視点からしても,彼のような男性がモテるのは全然僻む気にもならない.

自然なことである.

これ以外の店の話だが,もうちょっとまとも(?)というか,高めのブランドの服を漁っている時に,話しかけてきた店員さんが,

「あ,これかっこいいですよ,いいですよ」

とか何とか言いつつも,その手の服を着ている姿が板についていないと,少々がっかりすることがありますよね.

「あ,これなら買わなくていいや」

とかいう気分になってしまう(すまない).

もし,店員さんの着こなしがばっちりで,それでいて感じのいいイケメンだったら,買ってしまっていたんだろうなとかなんとか思ってしまわないでもない.

まぁ,世の中そんなもんである.

というわけで,世のファッション雑誌に美男美女がたくさん登場しているのは,宜なるかなというものである.

衣料品も着る人を選ぶのである.

というわけで,最近まで紳士服の店員さんはイケメン兄ちゃんに限るとか思っていたのだけれど.

実は最近,とある店で服を見ていたのだけれど,そこでけっこう美人で愛想のいい店員さんと長話で盛り上がったりしてしまいました.

それでもって,とある服を羽織ってみたのだけれど,その瞬間に,その店員さんに,

「あ,かっこいい」

と,納得されながら言われてしまったので,調子に乗ってその服を購入することにしてしまいました.

もし彼女が狙ってその台詞を演じて言っていたのなら,文字通り「プロ」ということになるのだろうし,もし本気でその台詞を言っていたとするのであれば,それはそれで天然で「プロ」ということになる.

女性店員も悪くない(調子に乗っていることは否定できない).

うん,悪くない.

そんなこんなで,あんまり買い物とかしない人間ですけれど,ちょっとピンク(知っている人には「またかい!」とか言われそうですが,まだ手持ちのピンクの服は3点しかなかった.本当に)系統の服を買わされてしまいました.

あんまりピンク系統の服を着ていると,またゲ○なのではないかと噂されそうですが,私の今までの人生で彼氏がいたことはありません.

本当に.

2013/06/15

何を教えれば

暑いせいで体力が取られているせいか,3時前後になるとめちゃくちゃ眠たくなる.

前任校にカフェのようなものはなかったが,現任校はドイツ式のカフェがあるので,眠気覚ましにちょくちょく珈琲を買いに行っている.

先日,たまたまカナダ人の同僚を見かけたので,一緒に珈琲を飲みながらいろいろと雑談をしたのだけれど,日本の大学で何を教えればいいのかけっこう悩む.

難しい.

今は英語科目を1つだけ持っているので,中間のまとめとフィードバックを兼ねて,ちょっと学生さんたちに英語で簡単なエッセイを書いてもらった.

意外に(失礼!)英語の文章が書ける学生がちらほらといたのを見かけたのは収穫だったが,一方で読んでいてガックリとする内容のものもある.

3, 4名だが現在の興味etcを書いてくれたのだけれど,

「科学にも,数学にも,物理学にも,生物学にも,工学にも,ITにも,経済にも,政治にも,言語学にも,心理学にも何にも興味がありません」

とかなんとかかんとか.

彼らが英語のレベルもお粗末で,手の付けようがない人たちだったらこちらも気にならないのだけれど,彼らの書く文章の水準は一応,平均前後のものだった.

というわけで,うちの大学の平均値前後の,つまりヴォリュームゾーンに位置している人たちには,アカデミックな内容の講義は求められていないということがわかった.

残念.

彼らと雑談をしていると,海外がなんとかかんとかとか,食べ物がどうだとか,ファッションがどうだとか,その手の話は楽しいらしく,よく食いついてくる.

授業でもこの手の話ばっかりしてくださいとか言われたのだけれど,私はまだ青いせいか,学術的な内容を扱うということから逃げたくない.

なんだかな.

といった内容のことをカナダ人の同僚と話していたのだけれど,彼も最近授業内容についてのフィードバックを求めて簡単なエッセイを書かせたらしく,その内容について教えてくれた.

「16人中,10人が課題をなくしてください」

と言っていたとか,なんとかかんとか.

「授業に出席していれば,英語力が上がるような授業をして欲しいetc」

という話を聞かされたのだそうで.

日本ではどうも大学入学まで手取り足取り教え導いてくれるせいか,なんでもかんでもこちらが用意しないと学生さんたちが能動的に何かをするなんていうことはないのである.

これが現実.independent studyという形式は,日本でなんとか取り入れられないのだろうか.

ちなみにこの同僚はイギリスでPhDを取ってきたので,一緒に教育システムの違いについていろいろと話をしたのだけれど,同じような問題意識は持っていたようである.

ただ,彼によれば,

「いやー,課題をしたくないとか言っているのは,16人中たったの10人だからねー」

という話.

単なるジョークなのだが,あくまで前向きである.もしかすると,16人中,6人は積極的に勉強をしようという人たちなのかもしれない.

うちに非常勤で来ていたことがあるという知り合いによれば,私の所属のお隣の学部の講義では,授業中に女学生が男子学生の膝の上に乗っかってチュッチュしていたとかいう動物園のような状況だったそうなので,うちの所属はそれなりにいい学科なのかもしれない.

まぁ,前向きに,そして適当に考えて生きていこう.

2013/06/09

グローバル人材?

国際的に活躍する「グローバル人材」の育成が急務とされる中、学習塾などが全国の大学生や高校生、保護者約1000人に行ったアンケート調査で、大学生の半数以上が「自分はもうグローバル人材になれない」と諦めていると回答した。




調査は3月、海外進学を目指す小中高生向けの学習塾「IGS」(東京)などがインターネットで実施。全国の高校2年生・大学3年生(当時)の男女412人と、小学校から高校までの児童・生徒の保護者618人が回答した。「今からグローバル化のための教育を受けても自分は間に合わない」と感じている割合は、高校生で50%、大学生で55%だった。保護者も24%が「我が子は手遅れ」と諦めていた。






「将来、グローバルに活躍したい」という大学生は3割、高校生も4割にとどまり、内向き志向や語学力への自信のなさがうかがわれる。海外展開する企業への就職を希望しない学生・生徒に理由を尋ねたところ「他の国の人とのコミュニケーションが不安」「日本にいられなくなりそう」などの回答が上位を占めた。(2013年6月9日09時48分  読売新聞)
















最近は,うちの大学でもグローバル人材育成だの何だのとおっしゃる人たちは多い.

ちなみに日本学術振興会によれば,グローバル教育とは,『グローバル人材育成推進事業は、若い世代の「内向き志向」を克服し、国際的な産業競争力の向上や国と国の絆の強化の基盤として、グローバルな舞台に積極的に挑戦し活躍できる「人財」の育成を図るため、大学教育のグローバル化を推進する取組を行う事業に対して、重点的に財政支援することを目的としています。』 グローバル人材育成推進事業(日本学術振興会)のだそうで.

よくわかったような,わからんような.

たぶん,学術という面においては,日本だけに引きこもっていても仕方がないし,やっぱり英語で論文を書いて学会で発表してこないと,白人さまたちに見ていただけないので,とにかく北米やヨーロッパに出て行きなさいということなのだろう.

英語優位な状態はもう今からひっくり返せない事態でもあるので,これはこれでしゃーないのかなとも思う.

似たような状況は野球のメジャーリーグだとか,サッカーの三大リーグなんかでも同じでしょうか.とりあえずレベルの高い所に行かないと自分たちのスキルが上がらない.

しかし,どうしてもお上の見解を「はい,そうですよね」と真剣に受け取れない自分がいる.

多くの若者が「グローバル人材」なるものを理解できないのと同様,大学教育の現場にいる我々もよくわかっていません.

穿ったものの見方かもしれませんが,これは現政府(官僚と経団連と言った方が正確なのかもしれない)の望んでいる事態であると考えればわりと話はすっきりとします.

現在の安倍政権の初期政策が,どうもわりとうまくいきそうという面にだまされてしまいそうですが,彼らを操っている政財界といった黒幕の本音はなんといっても,

1. 日本語と輸出国(英語や中国語など)の外国語に堪能で

2. 安い賃金で働き

3. あらゆる命令(海外赴任など)に無条件で首を縦に振る

という条件を持っている労働者をたくさん養成したいということに尽きるのではないかと思う.

「グローバル」などと言っているが,これは単に外国に行ってコミュニケーションが取れ,タフでどこに行ってもしっかり働く人材が欲しいだけのことである.

この字面だけ見れば「かっこいい」人たちなのかもしれませんが,要するにいくらでも替えの聞く,安くて使い勝手のいい道具が欲しいだけのことです.

世界水準で安い賃金で働き,社会保障もいらず,時期・状況に応じて安い国に工場を移して,そこで1年365日1日24時間働き,賃上げ要求も休暇請求もしない人材が欲しいだけである.

外国語と海外で生きるタフさは,そのために必要な能力に過ぎない.

しかし,全ての会社が本社まるごと海外に移動して法人税を納めなくなると困るので,「自国を愛する愛国心を持ったグローバル人材」になることによって,企業に奉仕し,そして日本政府に奉仕することのできる人材を養成したい,というただそれだけのことなんじゃないだろうか.

自民党がワタミの渡邉会長を参院選に立候補させるという方針も,こう考えれば合点がいく.

あまり深く考えると気が滅入るので,この辺にしておきますけれど.

社会・政府というものは,基本,大衆を利用しようとするものなので,現場の大学教員としては,こういった現状を割り切って,打算的にうまく乗り切っていく人材を養成したいと思いますけれど.

2013/06/08

大学教員のメールマナー(うちの女性教員たち)

日本の大学に就職しようとか思っていたときに,最低限のビジネスメールマナーは身につけておくべきだよなと思って,巷の「普通」と言われているビジネスメールの基本なるものをいろいろと学んだつもりだったのだけれど,その全てが現任校では否定されている.

特に,日常的に約3名の年配の女性大学教員から来るメールが,所謂ビジネスマナーと呼ばれているものの真逆を行っているので,戸惑うことが多い.

性差からなのか,年齢からくるものなのか,その要因ははっきりしないのだけれど,とにかく今までやってきた自分のemailの送り方がこの2ヶ月でいろいろと否定されてきた.面倒くさいのであまり守る気はしないのだが,とりあえず思いつくことは以下のようなものである.

(1) とにかく思いつくことがあったら,結論も用件もないのにガンガンメールが送られてくる.

→少なくとも私は確定事項にならない限り,仕事のメールは送らないのだが.

(2) メールの文面がとにかく長い.長文である.まるでエッセイを送ってくるかのようである.しかも改行箇所がとても少なくて目がちかちかする.

→ビジネスメールは簡潔にして当を得たものと心得ていたのだが,そのようなメールを送ると「不機嫌なのですか?」とか,「メールではいつも怒っていますよね」とか言われてしまう.用件だけを書くメールはどうも彼女たちには不評のようである.

(3) 結論に至るまでが長い.また,自分の気持ちやある現状に至った経緯がこと細かく記述されている.

→他人に話す場合には,結論だけを簡潔に記述してもらいたいと私は思っていたが,どうも違うようである.

(4) 絵文字や顔文字が混じる.

→プライベートメールでの使用はもちろん可能だが,ビジネスメールでは御法度だと思うのだが.

(5) 添付ファイルはベタ貼り.ファイルが複数(4種類)とかあっても,そのままべたっと貼り付ける.

→普通は受け手の受信メールボックスの容量を考慮したり,spam扱いされないように複数の添付ファイルがある場合には圧縮にするのが基本だと思っていたが,先日怒られてしまった.どうやら「解凍の仕方がわからない」のだそうである.いくらなんでもあんまりだと思う.ちなみに別件だが,学生さんの住所等,気を配るべき個人情報が記載されたファイルのやりとりでパスコードをかけた時にも苦情を言われてしまったことがある.

というわけで,大学という空間では,一般企業とは違うルールに則って業務が行われていることがあるので,学生さんたちが一般企業に就職する際に身につけねばならない一般常識というものは,少なくとも大学では学べない(むしろ悪影響である)ということだけは私の現任校から断言できる.

最近は,自宅と土日は大学アカウントに来るメールのチェックはしていませんけれど(それが健康によいのである).

2013/06/06

携帯依存症の人たち

前任校の学生さんたちほどではないですが,現任校の学生さんたちも結構携帯電話に依存気味で,暇さえあれば携帯電話をチェックしています.

前任校では,講義中も携帯電話から目が離せないという人たちが一定数いましたが,今ではかなり少ない印象です.前任校では自分が依存症だという自覚がある学生さんもいて,たまに一緒に直そうとかいう人もいたくらいなのですが.

携帯電話を見ながら道を歩くとか,自転車を運転するとか,車を運転するとか,結構危険なことをやっている人たちもいて,彼らが危ないということはわざわざこんなところで言う必要もないと思うのだけれど,携帯電話依存症から引き起こされているのではないかと思われるネガティブな側面をいくつか考えてみたい.

まず,彼らの多くがLINEやFacebookのようなSNSにかかりっきりという話.

絶えず他人の動向をチェックしておかなければならないという強迫観念にとりつかれているみたいだし,お互いにしょうもないやりとりをしているという自覚もあるらしい.

ただ,常に誰かとつながって,連絡を取り合っている状態にならないといろいろと不安になるようである.

ここから出る弊害は以下の2つ.

まず,この種のコミュニケーションスタイルが,かなり簡易化された言葉と絵文字で構成されているということである.

人間がものを考える2つの大きな武器は言葉と数学であると私は考えているのだが,そのうちの言葉を使用した表現能力が不足しがちな人たちが増えているような気がする.

自分の中で感じた感覚を,「ほら,あれ」といった擬態語や感覚表現,ないしは絵文字なんかで表現して事足れりとしてしまうので,自分の意見を他人に明確に伝える形で言語化できないということ.

人間は社会的な生物なのであるから,自分の中に生じた感覚を言葉にすることは必要不可欠であるし,また自分がなんとなく感じた「感覚」を言葉を使って考察する作業は思考能力の養成に必要不可欠なことなのである.

その種の能力の成長が阻害されてしまう.

もう一つが,孤独になれないということ.

何せ,片手で掴めるツールが一つあれば1日24時間誰かと連絡が取り合えるのだから,一人の時間が確保されなくなってしまうことにもなりかねない.また,彼ら若い世代の間ではメールなどの連絡をして,数時間経って返事がないだけで「遅い」と感じてしまう人もいるようである.

若い世代,特に学生時代には孤独な時間が必要不可欠なのではないかと思う.

それは,孤立してしまうとかそういうことではなくて,一人で何かをじっくりと考えたり,本や書物に腰を据えて向き合う時間が確保できないということが問題なのではないかと思うのである.

文学だの,論説だのといった一定の,それこそ一言で結論をまとめるだけでは理解したことにはならないような文物と対峙するには,孤独な時間が必要なのである.(芸術鑑賞や創造にも)

また,自分で何か新しいことを考える・創造するのにも孤独な時間帯は必要である.人は一人になったときにこそ,思考力を最大限に発揮するという一面もあるのである.

この種の問題は日本だけではなくて,それこそ私がイギリスにいた頃からFacebook addictionという言葉で西欧でも問題視されていたことである.事実,私がいたdeparment近くのコンピュータルームのプリンタ室で,私が論文をプリントアウトしにいくと,常にパソコンに向かってFacebookをチェックし続けている馴染みの顔の学部学生が数人いたのを記憶している.

彼らは無事に卒業できたのであろうか.

2013/06/01

感覚の合わない車

えと,新車クンです.


というのはウソで,ちょっとゴルフを車検に出していたので,3日間代車で使わせてもらっていたビートルです.

元から自分で買う気はさらさらなかったのだけれど,一度くらい運転してみたいなという願望だけはあったので,ディーラーさんにビートルを出してもらいました.

しかしながら,この車,身体感覚が全然合わなくて,凄く気持ちが悪いのです.

視界もあんまりよくないし,それに足下(アクセルとか)が全然落ち着かない.

前後左右の間隔も全然わからないので,本州の狭い道路を走るのは戦々恐々でした.

それとバック駐車が凄く難しい.

バックで入れるのがこんなに大変なことなのだと,実感としてわかりました.駐車場等でちんたら入れていてすみません.まぁ,これで駐車に時間のかかる女性の気持ちがわかったので,今後心の余裕が持てそうです.(別に今までもイライラしていたわけではないですが)

ゴルフに初めて乗ったときは,体になじむ感覚というか一体感のようなものがあって,「あ,これだ」という気分になれたのだけれど,ビートルは全然ダメでしたね.ゴルフが帰ってきて,ようやくほっとした気分でドライブができるようになりました.同じワーゲンでも,やっぱりゴルフはいい車なんですね.

ビートルはこれで300万円以上する車なので,おそらく外見が好きでたまらないという人以外は買わない方がいいのではないでしょうか.2ドアで基本2人乗りだし,トランクは狭いし,インテリアや細かい作りがゴルフと違って使いにくいことも多いです.もちろん,惚れ込んだ人が一定数いるので売り上げもあるのでしょうけれど.(好きな人はもちろん買ってください.好きになっちゃったものは仕方がない)

ところで昨日は,こういう高い所にあるカフェに行ってきました.

周囲はなぜかカップルらしき人はあまりいなくて,男性同士・女性同士という人たちが多かったですね.まぁ,もしかするとカップルだったのかもしれませんが,特にそういう雰囲気でもなかったような.

2013/05/27

英語がイヤになる日

「恐怖症」というほどのものでもないのだけれど,月に1回くらい英語がイヤでたまらなくなる日がある.

見たくも聞きたくもないくらい.

正直に言うと,留学中もこういうことが1, 2ヶ月に1回くらいの頻度でありました.

さすがに英語圏のイギリスでこの手の症状が出ると面倒くさかったのだけれど,なんとか極力人と接触しないで,微妙に引きこもり気味になりながら一日を過ごすようにしていました.

論文を読まないとか,もちろん書かないとか,テレビは見ないとか,家のシェアメイトとはなるべく話し込まないようにしないとか.

こういう時のために日本語の本なんかも持ってきていたし,パソコンでも日本語のサイトばっかりを見て過ごしておりました.

現任校で,7割方は言語学の教員としての仕事をしていても,なんだかんだで3割ぐらいは英語教員という側面があるので,忙しい時期にこの症状が出ると大変なことになる.

まぁ,どっかで心理的な負担を感じながら英語を使っているんでしょうね.楽に使っているようでも,それが完全に無意識なレベルで使いこなせる程の水準に,私のような人間はなれていないようです.

なんらかの形で英語を生業にしている人たちは,基本的に昔から英語が好きでたまらないというのが基本だと思うのだけれど,私の場合は別に昔から英語が好きだったわけではなく(むしろ,嫌いだった),大学入試をきっかけに没入したタイプなので,ちょっと特殊な部分もあるのかもしれない.

よくシラバスや教育方針・大学紹介なんかで「英語の楽しさを伝える」という文句も見かけるのだけれど,私はどこかひねくれているせいか,「ケッ」とか思ってしまう節がある.

たぶん,こういうことを言う人たちは,自分が最初から英語が好きだったので,嫌いな人たちがいるという事実が信用できないのだろうと思う.

本能的な部分で,それこそ没頭するようなレベルの趣味でそれが一番好きだという人は,その楽しさを論理的・明示的に説明する能力がないのではないだろうか.これは,ある種の趣味が好きでたまらないという人たちの見解を聞いていても,その良さがわからないという多くの人が体験している事実とも合致するような気がする.

そういう意味では,元・英語ギライの私が英語を教えることにはそれなりに意味があるのかもしれない(と無理矢理自分を肯定してみるテスト).

その一方で,勢いで英語でコミュニケーションを取ろうとしている川崎宗則選手はいろいろとすばらしいと思う.



いろいろ言われていますが,野球の実力とその人気は本物です.

2013/05/25

大学教員とか執筆関係者の抱える問題

今,現在,こんな状況です.


「てめー,研究者なら論文書け!」という話ならなんとかやる気も起こるんやけど,ちゃうねん,大学教員って研究とは関係のない書類を作る作業がめっちゃ多いねん!

とりあえず今日はもう忘れる−!

英語も今日はもう読まない,書かない,聞かない,喋らない!

2013/05/17

わかりあえない

なんだかよくわからないのだけれど,生成文法にコミットしていると,時に「俺は親の敵なのか」と思ってしまうくらい,人の怒りを買ってしまうことがある.

よくわからない.

質問や話を振られるので,そもそも生成文法が何をしようとしている研究プログラムなのかをできるだけかいつまんで話をしてみるのだけれど,文学畑の人たちには我々が考えていることがなぜか逆鱗に触れるらしく,時に顔を真っ赤にさせて怒らせてしまうことになる.

そんなに怒るのなら,話なんか振らなきゃいいのに...

この種の生理的嫌悪感というのは,我々の業界の有名人の一人,チョムスキーがよく引き起こしているようである.

理由がよくわからないのだけれど,チョムスキーはあちこちでいろんな人たちの怒りを買っている(政治関係の話なら仕方ないけれど,言語学でも).

しかも,そのほとんどが無知・無理解に基づいているもので,「どこでこんなこと言ったんだ?」という出来事に基づいて罵詈雑言の嵐が吹き付けられることになる.

似たような話は村上春樹さんがエッセイで愚痴っていたのだけれど,どうも世の中には「嫌いだからほうっておく・離れておく」ということをさせておかないで,なぜかやかましい論敵を増やしてしまう思考法・作品というものがあるらしい.

なぜか,数学畑の人たちには,生成文法の考え方はすっきりと受け入れてもらえることが多いのだけれど(彼らが単純に頭がいいだけなのかもしれない.じゃ,文学畑は,ってモゴモゴ).

まぁ,そんな偉そうなことを言っている一方で,私も所謂,日本の西欧文学系の人たちの考え方や講義というものが結構気に入らない.

自分もわりと文学作品は楽しんで読んでいるのだけれど,なんだか無理矢理に読まされるのもイヤだし,それに読み方・解釈の仕方を強要させられるのも気にくわない.

好きなように読ませて欲しい.

それに読書感想文よろしく,感想やら意見やらを言わされたり,言わせたりしているのも気にくわない.

自分が学生なら,いい作品を読んだ後は好きなように余韻に浸らせて欲しい.

わかった顔をして批判されたりすると,けっこう不快である(芸術の世界なんだから,「論理的に」「道徳的に」見解を押しつけないでもらいたい).

それに彼らは自分たちこそが一番文学作品を理解しているのだという態度を取るのだけれど(専門家なんだからしゃーないんだけれど),それも不快である.

正直に言って,「あんた,全然わかってないやん」という意見を持つこともけっこうある.

というわけで,お互いわかり合えない言語学畑と文学畑の人たちが日本の大学組織では同じくくりでまとめられることがけっこうあるので,世の中大変だよなと思う.

まぁ,喧嘩してなきゃそれでいいか.

というわけで,昨晩のご飯(調理時間20-30分).

厚揚げとニラと豚挽肉の味噌炒め(「きのう何食べた」に感化された)
(1) ショウガひとかけとにんにくひとかけをみじん切りにし,ごま油で香りをつける.そこに豆板醤をひとたらし入れて,豚挽肉と塩・胡椒を投入して炒める.
(2) 厚揚げとざく切りにしたキャベツを入れ,ちょっと火が通ったら,味噌・酒・みりん・砂糖・醤油で味付けして
(3) 仕上げにニラを入れて,軽く火を通しておしまい.

茗荷とおろしタマネギ
(1) みじん切りにした茗荷とスライスして水にさらした新タマネギを入れ,かつおぶしを載せて完成.食べる直前にラー油をひとたらしして,ポン酢をかける.

とろろ昆布汁
(1) 水を火にかけ,酒を少々,白だしと醤油を少々入れ,とろろ昆布を入れた容器に入れて完成.

2013/05/11

ローリエを探す

ばら売りのトマトとセロリが安かったので,ミネストローネを作ろうと,スーパーの店員さんに

「すみません.ローリエってどこにありますかね?」

と尋ねたのだけれど,なぜか話しかけた場所のすぐ裏の棚にある生理用ナプキンの方向を指さされた.

...

あの,それ,ロリエの間違いじゃなくって?

...

発音悪かったのかな.

しゃーないので棚を角から角まで見渡すと,なんとか香辛料のコーナーを発見することに成功する.

それで,なんとなくローリエを使いたくなくなったので,ブーケガルニを購入することにする.(まぁ,どっちゃでもいいのではないかと)

というわけで,休日ですが,家で仕事して,ジムに行くと夜になってしまう.

そんな今日の献立はこんなの

・ミネストローネ

・キャベツの中華風春雨炒め

・冷や奴の茗荷載せ

レシピはこんな感じで.

ミネストローネ:
(1) テフロン加工の鍋に直接刻んだベーコンを入れ,胡椒を入れて軽く焦げ目をつける.
(2) そこにオリーブオイルを入れて,刻んだタマネギを入れ,中火でかき混ぜてしんなりとさせる.
(3) さらに刻んだにんじん半分,セロリ1本,しめじを入れて,塩胡椒をして炒める.
(4) 水を3カップ入れて,酒をちょっとどぼりと入れる.刻んだトマトを2つとコンソメ,ブーケガルニを入れて弱火でぐつぐつと煮てできあがり.(長めに煮込むとトマトがまろやかな味になる)

キャベツの中華風春雨炒め:
(1) フライパンにごま油をしき,みじん切りにしたショウガとネギを入れ,豆板醤を少々入れて香りがついたら挽肉を100グラム前後ぶち込み,塩胡椒をする.
(2) 刻んだキャベツとしめじ(もしあれば余り物の野菜なんかも)を入れて,軽く炒め,それに味噌,酒,みりん,砂糖,醤油を入れて味付けをする.
(3) 水を100mm程入れ,さらに半分にバキッと折った春雨をダイレクトに突っ込み,春雨が水分を吸い取ってしまったらok.これで完成.

冷や奴の茗荷載せ:
(1) 刻んだ茗荷を豆腐に載せ,ラー油をこぼしてからポン酢をかけて完成!

というわけで,明日はいい休日になればいいのだけれど.(晴れたらベッドシーツを洗濯しないといけない)

2013/05/05

敗者の視線

長嶋茂雄さんと松井秀喜さんの国民栄誉賞の授与式の模様を目にした.

いろいろと思うところはあるのだけれど,松井さんのエピソードに関して,「努力の人」というのにはちょっと違和感を覚えてしまう.

念のために言っておくと,彼が積み上げてきた途方もない練習量に関して,疑いの余地はない.素振りを始め,凄く地味なトレーニングを重ねてきたのだろう(素振りの量と言えば,個人的にはケン・グリフィー・ジュニアを思い出してしまうが).

しかしながら.

きっと今のプロ野球の中にも,彼と遜色ないくらいの練習を積み重ねてきている人も何人かいるのだろうし,他にも地道な努力を重ねている人はごまんといるはずである.

私のような半端者に言わせてもらえれば,彼らのような人間は野球の女神に祝福されている人たちなのである.

凡人がどれだけ努力しても,彼らの域に達することは決してできないのである.

私のような水準の野球の実力の人間などごまんといると思われるが,高校のそこそこのチームでなんとかレギュラーを張れる程度の実力の人間は,だいたいが小学校や中学校レベルではわりとちやほやされているレベルなのである.

それが,高校に入ると「こいつにはかなわない」という人たちを見かけることになり,生存のためになんとかモデルチェンジを計るわけである.

それこそ,小技や走塁技術の鍛錬は怠らないし,それに必要とあらばどこのポジションでも守れるようにしておかなければならない.さもなければ,レギュラーはおろか,ベンチ入りもままならなくなってしまう.

一方で,野球の女神に好かれている人たちには,努力などという積み重ねでは到底乗り越えられないような能力が与えられているのである.それは,そこそこのチームの主力選手でもそうだし,松井さんのようなレベルになると推して知るべしである.

ここ数十年,高校野球において,何十年に一人の逸材という選手が何人も出てきてはいるが,松井秀喜レベルの弾丸ライナーをスタンドに叩き込める人材は少なくとも出てきていないと断言できる.

それは,プロ野球を見れば顕著である.

懐かしの映像がたくさん流れていたが,日本人で松井秀喜レベルの「圧巻」と言うべきホームランを打てる選手は,彼が日本球界を去って以来,この10年以上一人として出てきていないではないか.

彼はそれだけ特別だったのである.

それにメジャーリーグという一流の中の一流が集まるリーグにおいて,日本人で年間30本というホームランを打てたのも,今のところ,彼一人だけである.

日本のミーハーな人たちは,すぐに松井秀喜をプーホールズだの,カブレラだのといった超一流の人たちと比べたがる傾向があって困ってしまうのだが,この手のレジェンドクラスの人間を除けば,松井秀喜という選手も十分に一流と呼ぶにふさわしい選手だったということはちょっと調べればすぐにわかるはずである.

一部,アメリカのメディアでも言われていたことがあったが,私は松井秀喜はポール・オニールに匹敵する選手であったと思う.オニールはヤンキースの90年代の全盛を支えた主力選手であったが,左の強打者でミートがうまく,また長打力もあり,状況に合わせたバッティングができるなど,松井秀喜と同じようなタイプのすばらしい選手だったのである.

ニューヨークのヤンキースファンならオニールがすばらしい選手であったという評価に疑問を挟む人はいないはずである.松井秀喜はそれと比べても遜色ない活躍をしたと私は思う.

これだけの能力を野球の女神に与えられたということは,本当に特別なことであると私は思う.松井さんがインタビューで「責任」という言葉を口にしていたが,おそらく彼もどこかでそのことは自覚していたのではないだろうか.

我々一般人は,そのような野球の女神に祝福された人間のパフォーマンスを存分に堪能すればそれでいいのだと,今なら思ったりもする.

この手の成功者の美談を語る時には,彼らの成功の秘訣というものがもてはやされるが,その陰では多くの一般人が,彼らのような女神に祝福された人間を横目に挫折を味わってもいるわけである.一人の勝者の前には,何十万もの敗者が存在するというのが世の常である.

自分は数多くの敗者の一人ではあるが,成功者の偉業を称える心意気だけは持ち合わせていたいと思う.

ちなみに,日ハムの大谷翔平選手が野手に専念すれば,松井秀喜レベルの水準に達するポテンシャルはあると思うのだけれど.(でも,投手のポテンシャルも捨てがたいんだよねぇ)

2013/04/24

趣味の持てない男

UK時代の友人で,近場の難産(当て字)にいる友人と久しぶりに会ってきました.

まずびっくりしたのが,彼がポルシェのオープンカーに乗ってきたということ.(ボクスターかな?)

おぉ.

さらに2台目の車として,クラシックカーも所有していました.

私も男なので,少なからずこれらの車には興味があるし,見ていて楽しかったです.

しかし,買う気にはならん.絶対...

まず,車を2台買うということがありえない.

私のような俗物根性丸出しの人間は,駐車場料金が2倍かかるというのが話にならないし,すぐに (1) 任意保険が高い,(2) 燃費が悪い,(3) 荷物が載せにくいなど実用性に乏しい,(4) いくら屋根がかぶせられるとは言っても暑さ・寒さ・風・雨に弱い,といった現実計算を始めてしまうことになる.

実際,その車に乗せてもらったのだけれど,「寒い」という理由で屋根は閉めたままにしておいてもらった.「風は感じられない」かもしれないが,15-6度でオープンカーに乗る根性は私にはないのである.(アメリカでレンタカーを借りたときにオープンルーフの車にして走ったことはあるが,レンタカーで「遊ぶ」ことはしても自分の車として所有するというオプションとしては考えられないのである)

さらに,彼の家にはちゃんと温度管理のできる大きなワインセラーが2つと,その中にたくさんのワインがしまってあった.

私もワインは好きだし,よく飲んでいる(とは言っても,お酒自体,週に4回くらいしか飲んでいないのだが).それで,ワイン用のセラーを作ったが,イケアの棚をアレンジしただけのものである(手軽だが,これはこれで見栄えはいい).もちろん,電源なんかない.

それで,そこには現在ワインが9本とウイスキー(シーバスリーガル)が1本と,アマレットが1本あるだけである.

ワインは1本2000円もしないものだけである.(私基準で1500円以下が普通,1500円を超えると高級ワインなのだ)

しかし,奥さんの話によれば彼はよく4000-5000円のワインを買ってくるらしい.(焼酎なんかもいろいろ揃っている.森伊蔵とか)

好きに生きているなと思う.

本来,人間の趣味なんてものは,それが共有できない人には理解できないものだし,お金をつぎ込むことに対して躊躇はしない人も珍しくないんだと思う.

これはこれで,いい生き方なのではないのだろうか.

特に大学教員なんて,少々破天荒なところがあった方がおもしろい研究もできるものなのかもしれない.

一方,私という人間は結構みみっちい.

買うワインも安ければ,食事は相変わらず節約・ヘルシー志向だし(今日の献立はナスと豚バラ肉の味噌炒め,冷や奴の新タマネギ載せ,ほうれん草としめじのおろし和え,田舎汁(要するにけんちん汁の里芋抜き)).

車は型落ちで,ハッチバックが便利,しかし走るのもそれなりじゃないとイヤという理由でゴルフのコンフォートライン(GTIは高いし,燃費と税金が高い)だし(中途半端な奴である).

趣味はせいぜいバッティングセンター通いだが,つい先週,バッティンググローブが半額で買えたと喜んでいるし(今まで使っていたのが穴が開いてしまっていたのだ).

後は,勤務先の野球部の練習にちょっと参加させてもらって喜んでいるのと,ジムに通っていることくらいか.

なんと真面目でおもしろみのない人間なのであろうか.

って,別に否定的に考えているわけでもなくて,「そんなもんか」って感じでマイペースで生きているのだけれど.

2013/04/15

イマドキの大学生を見て思う

週6コマある授業のうち,5コマをこなしてきました.

学生さんの水準ですが,悪い意味で予想通りでした.外国語学部といえど,レベルとしては「こんなもの」なのかもしれません.

もう8年以上も前のことになってしまうのだけれど,一応,受験の最大手で予備校講師もやらせてもらっていたし,だいたい受験生レベルでどれくらいの学力があればどの程度の大学に受かるのかという目安は持っていたつもりです.

ここ10年くらいは,この程度の水準で推移していたのかもしれない.

まぁ,入り口の広がり自体はたいした問題でもなかったのだけれど,問題は大学で勉強するかどうか.

特に重要なのは,自分で勉強するかということである.このことが持つ意味は非常に大きい.

今日,オックスフォードを出た同僚のイギリス人と,うちの学生とオックスフォードやヨークの学生の違いについてちょっと長めに喋ったのだけれど,やはり「自分で勉強しない」という問題意識は共有していたようである.

オックスフォードではコレッジ制が確立されているので(ヨークはオックスフォードをモデルにしているので,わりと共通点がある),大学での勉強といえばチュートリアルが中心で,講義には数える程度しか出ないという人もよくいるのである.

チュートリアルでは,個人で読まなければならない本・論文とそれについてのエッセイが適宜課されるので,オックスフォードの学生がこなさなければならない分量は日本の大学生の比ではない.

人の話を聞いているだけでは何も身に付かないし,勉強なんて自分でするものであるという真理に,日本の大学生はさっさと気づくべきだと思う.

これは予備校にいた頃から感じていたことだけれど,日本ではどうも「教えを請う」ということに重きが置かれて,何かお偉いさんの話を聞いていればそれで偉くなれるという幻想が強く浸透しているように思える.

そして,この幻想は文科の人たちも強く抱いているようで,次から次へと授業回数を増やせというお達しはこの幻想に支えられているようである.

困ったものである.

まぁ,一部トップを除いた中堅私大の学生の水準なんて昔からこんなもんだったのかもしれない.いくらなんでも自分の日本の出身校と比べるのもフェアではないような気がする.

H大に入った頃,私はやたらと現代思想やら文学評論が好きで,『構造と力』や『罪と罰』といった小説を普通に読んでいるという価値観を共有できる友人がたくさんいたことに安心感のようなものを覚えた.そもそも,大学で英語学なるものをやろうと思ったきっかけの一つは池上嘉彦先生だし,池上先生の著作は日本語の文体が好きで,ほとんど読破している(今でも評論の日本語の文章はこの人のものが一番好きである.明快で文章にリズムというか一連の音楽が流れている感じがして,ついついマネをしたくなる).

この手の本を読んでいると,高校なんかでは変わり者扱いだったのだけれど,おそらくその手の変わった人たちが集まることが許されるのが大学という空間なのではないかと思う.そして,私が大学時代に特に刺激を受けた大学院の諸先輩方は,今では大学教員として活躍している人が多い.

当然といえば,当然なのかもしれない.(私もいつの間にやらそうなっているし)

後は,自分がどれだけの若者に,学問に目を向けさせられるかというのが今後の自分の仕事の一つなのかなと思う.(まぁ,自分もまだまだ勉強しないといけないことは自覚できているのだけれど)

2013/04/02

外国語の技法を身につけるということ

今度の職場は英語を専攻言語とする外国語学部なので,必然的に英語を身につけるということが求められるようになってくる.

文科省が「英語が使える日本人」とかいう戦略構想を発表してかれこれ10年以上にもなるし,外国語というものを身につけることの意義の一つについて考えてみたい.

1つだけ断っておくと,私は外国語能力というものは技量というか,スキルの一つのように考えている節があって,とりあえずスポーツのようにガンガン練習をしまくる必要があると思っています(その獲得の過程がどうだとか,UGが第二言語習得にどう関わってくるのかとか,そういう議論はさておき).

決まり文句なんかや,ある程度パターンの決まったやり取りなんかにしてもそうだし,特定の言い回しや発音・聴き取りについても,とにかく「やってみる」必要がかなりあると思います.(「中国人の部屋」の話とも関連するが,とりあえず言葉の掛け合いの意義についてはわかっていなくとも,技術として身に付ける部分というものはある).

もちろん,他方では,理屈である程度のことは理解しておいた方が身につきやすいということもあります.いわゆる,一般的な意味で言う「文法」というものです.

この手の理屈を踏まえて,練習を繰り返すことによって,インプットを増やしていき,慣れてきた頃にはアウトプットの練習も増やしていく,と.

その次のステップとして,母語である日本語と,外国語としての英語から見える世界の見え方と価値観の違いについても,いろいろと考える機会も持ってほしいなと思う.

どちらも人間言語なんだから共通する部分があるのももちろんだが,価値観や世界の分節の仕方が違えば,世界の見え方が変わることがある.日本語と日本人,そして日本という国を客観化して眺め,自己というものをより深く理解するための相対化する道具として外国語を眺めるということもしてほしいものだと私は思う.

日本語では使う言い回しを英語ではしなかったり,またその逆というものもある.

うちの大学では,在学生が専攻言語を使用して新入生の歓迎スピーチというものをするのだけれど,そのスピーチを聞いていて,こんなことを考えていました.

彼らは在校生代表ということもあって,スピーチの技術自体はなかなかのものだったのだけれど,その話す内容がどうにも深みがなくてがっかりしてしまいました.

昨今の現代国語や小論文の偏った教育の成果とも言えるのかもしれませんが,

「忘れられない貴重な経験・他では得られない貴重な体験をすることができました」

「人の絆の大切さが分かりました」

「異文化を理解することの大切さがわかりました」

「人の優しさ・思いやりをありがたく思いました」

「成長することの大切さを知りました」

その全てが曖昧模糊として「なんだかな」と思ってしまう.言っている本人が具体的にどういうことを言っているのかというイメージが湧いてこないし,何か言葉の一つ一つが宙に浮いているような感じがして,何か言葉の体温のようなものが感じられない気がする.

最近の高校ではこの種の決まり文句が散りばめられているかどうかで「文章力」なるものを評価しているようなので,この種の教育効果が出ているといえば,そういうことになるのかもしれません.

大学教員の立場から言わせてもらえれば,単にこの種の現代日本の教育成果を反映したような表現を単に無理やり英語に変換するのではなくて,様々な英語の用法・英語的な言い回しを吟味して,体温が感じられるような特定的・個別的・具体的な表現のスピーチをしてほしいな思います.

個人的には,体温が感じられるスピーチであれば,少々技法としての英語の技術が劣っていても魅力的に感じます.

2013/04/01

嘘つかない

えと,大学を移籍しました.

札幌という街も気に入っていたし,学生さんもかわいらしくて素敵な人たちが多くて,けっこう楽しく働いていたのだけれど,如何せん北海道という地は理論言語学が盛んとは言いがたいし,しかも大学業務が専門と離れすぎていたということもあって,所属が変わるということになりました.

今回は人口も多く,研究が盛んな地域の大学で,何せ専門科目を担当することになるので,いい機会ではあるのだけれど.

この3年間は,札幌でちょっと羽を伸ばしていたという感じだったのかもしれません.そのままゆっくりと年をとって埋もれていくというのも楽でよかったのかもしれませんが,言語学の女神様に「お前,もうちょっと研究せい」と言われたのだと思うことにします.

ちなみに今日は入学式だったのだけれど,式の受付の職員さんにも教員扱いしてもらえず,式場でも父兄の人たちが教職員の座席をいくつか占拠してしまっていたので,仕方なく立っていました.

最近の父兄さんはやりたい放題という感じですね.その辺は前任校もあまり変わらないのだけれど.

というわけで,大学の施設ですが,いろいろなものがハイテクでお洒落で,ちょっと戸惑っています.まぁ,前任校がそっけなさすぎだと言えば,その通りだったのかもしれないけれど(女子大なんだから,もうちょっとお洒落にしてもいいのではないかと思いますが,けっこう保守的な所なので,いろいろと難しいこともあるんですね).

それと,学長に新しい人が就任されたのだけれど,某有名なロシア文学の権威でした.そのうち個人的に話をする機会なんかも持ってみたいと思うのですが.

そんなこんなで,本格的に新しい職場で仕事が始まりました.

2013/03/28

母校のビデオ

ところで,自分の母校の学科紹介があったので,ここにリンクを貼っておきます.自分はこの新しくなる建物の前の建物で過ごすことが多かったのだけれど.

脱北

なんてタイトルをつけると,嫌な所から出てきたんかえ?とか言われそうですが.

えと,ワケあって,本州に引っ越してきました.北海道から本州に家具類を送付すると,新品を買う値段と変わらない(ていうか,高い)とかいうことになっちゃうので,目ぼしい家具は全て処分してきちゃいました.

知り合いに譲るとか,リサイクルショップに売るとか,1つだけ粗大ごみ行きでしたが.

元々,リサイクルショップとニトリで必要な物を適宜買うとかいう形で部屋を作っていたので,捨てることに特に躊躇等はありませんでした.まぁ,それなりに愛着は湧いていたのだけれど.

それで,車に荷物を詰め込み,大学の卒業式と謝恩会に出席して(酒は飲んでいない.もちろん),苫小牧からフェリーに揺られて敦賀まで行く.

天気が良かったので乗り心地は良かったし,船の中はそれなりに快適だったのだけれど,さすがに丸一日近く船に揺られていると,三半規管がおかしい感じになってしまう.

新居には予定通りに着けたのだけれど,クロネコさんが引越し荷物を紛失しちゃったせいで,半日以上何もない新居で過ごす羽目になってしまう.それにしても問い合わせの電話3回目でクレーマー扱いするのはいかがなものかと思う.まさか,クロネコさんのオペレーターに逆ギレされるとは思わなかった.

その後もいろんなことがちょっとずつうまくいかなかなったのだけれど,ようやく3日前くらいから落ち着いて来ました.(ネットも使えるようになったし)「ここはイギリスか!」と言いたくなる気分になってしまう.

そんなこんなの春休みなのだけれど,本州って寒いですね.札幌の最高気温より最低気温は高いはずなのに,なんか体感温度は低い.

2013/03/03

大学教育改革の唯一の方法

大学生といえば,今時の大学生は3年も終わりに近づくと,ボチボチ就職活動というものを始め,3月になるとそろそろピークを迎えるという業種も多い.

最近はすんなりと職が決まるとかいうこともないので,この種の就職活動とやらに半年ないしは1, 2年を奪われる大学生というのが非常に多い.

それで,就職が決まればそれで万事オーケーとかいうこともなくて,3月1日から仕事を始めさせられる職種というものもある.

例えば,保育士なんかであれば,公立の公務員でもなければ,3月から仕事をやらされる人たちは非常に多い.

勤務時間は普通にフルタイムで,給料も出なければ,交通費も食費も何も出ない.

ナッシング.

お金を払って,働かせていただくのである.

名目上は「ボランティア」という形で,実質,強制的に1ヶ月働かせることになる.人によっては,日曜のイベントなんかにもかり出されるので,週休1日あるかないかという状態である.

なんでも3月から仕事ができるようになっていなければ,4月からの新学期の忙しい時期に対応できないからということだそうである.

おかしい.

少なくとも,3月末日までは彼らは大学生である.所属は大学にあって,園・施設にはない.

この種の無償労働を国が禁止してくれればよいのだが,その種の介入は面倒なだけで益になることもないということで全く動く気配はない.

幼稚園や保育園の自治に頼ることもままならない.

彼らは結束して,周囲が全てタダで新任の保育士をこき使うことができるように示し合わせをしているようなのである.

仮にいい待遇をしている園が他にあれば,優秀な人材はそこに流れる可能性があるが,全てが酷い境遇であれば特に問題はないということなのである.

というわけで,多数の保育士・幼稚園教諭候補の人たちが今月から無給で働かされている.

何度も言うが,名目上はボランティアである.

だいたいが,この国の「ボランティア」という言葉の使い方からしておかしい.

高校で「ボランティア」なるものに励めば,大学入試で色を付けることが推奨されるし,大学でも「ボランティア」なるものに励めば,就職で色が付けられることになる.

「ボランティア」というものは自発的にやる能動的な行為であるはずだが,カタカナで書けば,なぜか強制的で義務的なニュアンスが含まれてしまうことになる.

少なくとも,英語の語感にこのようなものはない(と思う).

こういったことを各企業や施設も知っているせいか,本学ではやたらとボランティア募集のパンフレットが並ぶ.

その内実は,なんてことはない,無料の労働力を必要としているだけのことであることが大半である.

もちろん,中にはインターンのような実地研修が得られる機会があるものも混じっていることは否定しないが,大学で「ボランティア」経験が要求されるようになって,企業や施設は願ったり叶ったりである.

文科省は「ボランティア」なるものを義務づけることによって,アルバイトという形で非常勤の無償の労働力を提供することができたわけである.企業や施設からの見返りはそれなりであろう.彼らは自分たちの利益を最大限にするということに関しては,こと天才的な集団である.

しかしながら,この種の職に就くことによって得られる報酬が大きいのであれば,私もあまりとやかく言わないかもしれない.

しかし,状況はろくなものではない.

公務員でなければ,保育士や幼稚園教諭の報酬というのは微々たるものである.

基本給が13万円台スタート(O樽市とS幌市K似のとある幼稚園など)というのも珍しくないし(正確な統計ではないが,14万円台スタートが多い印象),福利厚生など皆無に等しく,交通費が月額上限2万円,住宅補助などはなし,というのが多分多くの園の待遇である(ましなところもそれなりにある.「それなり」に).

これに税金・年金・各種保険を加えれば,手取りがいくらくらいになるかということは想像がつくだろう.札幌市の冬季の生活保護の支給額が月に手取りで14万円弱(市のホームページより)ということなので,フルタイムで保育士をやっていると生活保護よりも貧しい生活を強いられることになる.

私の記憶が確かならば,生活保護の支給額は「文化的な最低限の生活」の水準に基づいているはずである.ということは,保育士にはこの種の最低限の生活すら認められていないということになる.

何かがおかしい.

本学では,他にも福祉士になる人たちが多いが,ここの待遇も酷い.

基本給は保育士に2, 3万円程上乗せされた程度だが,研修期間にいきなり「1日12時間以上が基本の労働時間だから(残業手当なんてものはもちろんつかない)」と宣言されるような職種である.

まぁ,日本という社会では残業時間なるものを守っている会社の方が圧倒的に少ないわけだが,それでも12時間以上が基本ということを宣言させる状態で野放しにしているというのはいかがなものかと思う.一応,公的な施設なのだけれど.

この種の施設や園でいつも洗脳のように言われるのが,

「私たちの仕事のやりがいはお金じゃないんです.人のためにやっているんです」

といった言説である.

確かに教育職や福祉職において金銭的利益だけを追求する姿勢は褒められたものではないし,無償の奉仕をやらないといけないことも多々あることは否定しない.むしろ,必要な要素である.

しかしながら,その種の無償の奉仕を保証するためには最低限の報酬というものがあると思うのである.小中高等学校の教員程度の給料を支給しているのであれば,まだプラスアルファのことを求められてもいいのではないかとも思うのだが.

こういう悲惨な労働環境ということもあって,本学は就職率はけっこういいのだけれど,離職率も高い.

それで,昨今の大学生の就職率の低さ,若い社会人の離職率の高さの原因は,なぜか大学教育にあるというレッテルが貼られ,「キャリア教育」なるものが大学で必修科目になってしまったのには,こういう背景がある.

「文科省と経済界は,安くてたくさん使える労働力を求めているのだから,お前たちは四の五言わずに黙って働け.お前らに人権なんてものはない」

と,彼らの意図を正しく汲み取って翻訳すればいいとかいうものでもなくて,なんだか知らないが,劣悪な労働条件に耐えられる奴隷をたくさん作りなさいというお上の指示である.

ということで,昨今の「大学改革」なる運動の下では,就職活動で大学生の時間を大量に奪い,「ボランティア」や「キャリア教育」でさらに余裕をなくし,就職前の研修でとどめを刺すという状況になっているわけである.

日本の大学教育が悲惨であるということは,大学業界の人間として認めざるを得ない部分であるが,お上が動けば動くほど状況は悲惨になるということは断言できる.

大学という場で提供しなければならないものは,自分で勉強できる機会と自由な時間の2つであると私は思う.

大学は勉強する場であるのだから,その機会は保証されなければならないし,また人生の岐路に立つ若者はああだこうだと悩み,仲間と語り合い,そして若さと時間がある時にしかできない活動に没頭させてやるべきなのである.

日本の大学改革において,自信を持って改善策になると言えるものが一つだけある.

それは,企業の就職活動を大学が卒業するまで禁じ,お上が大学教育に口出しをしないことである.

とてもシンプルで,簡単なことである.

それ以外のことは必要ないと,私は思う.

2013/03/01

審査されている

3人の学生さんと喋っていると,いきなりファッションチェックを始められた.

(以下,脚色とかなしで)

「先生,きれいめの格好していること多いよね」

「いい感じにおしゃれ」

「ピンク多いけど」

「着る服のパターンが決まってるのもいいよね」

「そうそう,いい物を大事に長く使うって感じ」

「結婚したら,いろいろ買い換えて浪費しなさそう」

「格好に気を遣わないっていうこともないしね」

「あ,褒めてるんですよー」

...

話がどうしていきなり結婚まで飛ぶのかさっぱり分からないが,着ている服一つでここまで想像力が膨らむというのも凄いものである.

この話を聞いて思い出したことがあるのだけれど.

今更言うまでもないが,私はイチローフリークである(私の世代から下で,野球経験のある人間の多くはそうだと思うけど).

野球経験があるという話になると,好きな選手の名前を聞かれることが多いのだけれど,私は日本人ならイチローと秋山幸二を挙げることが多い.

そういった話を女性とすると,たいてい彼女たちは

「えー,でもイチローって神経質そうで結婚すると面倒くさそう」

という返事を返す.

これはわりと年をいった人も,若い人もそうである.

なぜ野球の話をしているのにイチローと結婚するという話につながるのか,文脈というものがそもそも分からないし,それに断言させてもらうが彼女たちがイチローと結婚する可能性はゼロである.

ナッシング.

そもそも,イチローと話をする機会すらないであろう.

男には,女性の論理というものが理解できないということは,以下のサイトに詳しい.

女ってわけがわからないよ!って思う8つの例

2013/02/27

ろくでもない期間

なんだか知らないが,やたらと忙しい日々が続いていたのだけれど,それがようやく落ち着きました.

実は単に忙しいというだけのことでもなくて,なんだか最近はいろんな人たちによく絡まれます.

というわけで,最近の主な業務内容は

「謝ること」

に尽きます.

ぺこりぺこりと,せっせと頭を下げる.

大学教員,弁護士,医者といった先生方は全然謝らないで傲慢な奴らばっかりだとよく言われているけれど,そんなことはない.

日本という社会で組織がそれなりに回っているということは,謝らない傲慢な人たちの陰で,せっせと謝っている人たちが確実にいるのである.

私はどうやらそういう謝らなければならない立場の人間であるらしい.

いやしかし,自分が他人の怒りを買っても仕方がない,ろくでもない人間であるということはそれなりに自覚しているのだけれど,何もこんなに理不尽に攻めなくてもいいのではないかとも思うのである.

実はとある本(言語学とは全く関係がない)の編集をしていて,それが今の今までとても忙しかったのだけれど,編集者,しかも編集長というのは大変な仕事なんだということがよく分かる.

出版社にはぺこぺこと頭を下げ,お願いをし,執筆者にも頭を下げてお願いをする典型的な中間管理職なのである.

自分より年上の大学教員様が誤字脱字,明らかにおかしい言語表現を用いていた場合,相手の機嫌を損ねないように必死に下手に出て,修正させてもらわないといけない.

えっ!?」と不機嫌そうに睨まれようが,不満な顔をされようが,こちらは極力下手に出て,相手のプライドを傷つけないように,そして申し訳なさそうに訂正させていただかないといけない.

「この程度の文章の書き方は高校生で身につけとけよ」とかいう心の声は相手に伝わらぬよう,必死に押し殺さないといけないのである.

こちらはお願いしている立場なのだ.こちらが掲載の全権を握っているジャーナルのレビュアーではないのである.

それに,執筆者の中には明らかに事実的におかしいことを書いてきたり,他人の文章をぱくってきたり,理不尽な要求をしてくる場合もある(縦書きの本のシリーズなのに「横書きにしろ」と言ってくるとか).

しかも,ある種の活動家,政治家さんに執筆を頼むとえらいことになるということが分かった.

何を言っても機嫌を損ねてしまうのだけれど,まさか事実ではないことを掲載させるわけにはいかないし,ぱくりかもしれない部分はリライトしないと本全体の信用にも関わる.それに,デザイナーに本の装飾を一括しているのに,勝手に縦書きの物を横書きに変えるわけにもいかない.

というわけで,あの手この手で平謝りしながら,無理矢理に納得してもらうことに成功する.

全くの時間と労力のムダのような気もするのだけれど,一般企業だとか,それこそ出版社に勤めていらっしゃる人たちは普通にやっている仕事なのだろう.日頃が恵まれているのだと割り切って,せっせと頭を下げてきました.

まぁ,自分は何も悪いことはしていないはずだし,いつの間にかこんな立場に立たされていただけの話なのだけれど,いい勉強だと思うことにする.

これの他にも,実は大学の語学カリキュラム編成をほぼ実質私一人で変えてしまって,英語のクラスを能力別の3段階,全体を7クラス編成にし,日本学術会議の文言なんかも参考にしてレベル別に目標を設定したという仕事をしたのだけれど.

レギュラーの教員にはもちろん賛同を得られた組み替えで,それでもって自分が交流のある非常勤の先生たちにも好評だったのだけれど,残念ながら全員のコンセンサスを得ることはできませんでした.

うちの学部は非常勤の先生たちと会合を持っているのだけれど,そこで専業非常勤の年配の女性に,かなり感情的にがなり立てられてしまいました.

しかも,英語科目の共通目標が英語で書かれているのだけれど,その英語が「平易で分かりやすい」という理由でぶち切れられる.

意味が分からない(さらに日本語が話せるアメリカ人とニュージーランド人の先生には,もっと意味が分からないと同情されてしまう).

何かもう,いろいろと分からない.私は彼女の親の敵か何かなのだろうか.

それでもって最近は,お隣の学部の変ちくりんな教授先生に公に絡まれてしまった.

その理由があまりにあほらしかったのだけれど,公衆の面前で恥をかかせてもいいものか悩んでいる今日この頃.(大学業界のことがよく分からないという人は,筒井康隆の「文学部 唯野教授」をお読みください)

ヘタなことをすると逆恨みされるだけになりそうなので,本当に関わり合いになりたくないのだけれど.

というわけで,明日はちょっとお休みで昼間から飲みます.

2013/02/13

バレンタインは

たくさんの女子高生と過ごします.

静かに.

まったりと.

入試会場にて...( ̄~ ̄;)

何もしない仕事って,けっこう憂鬱...

今週はずっと入試に一日縛られる日々が続きます.

2013/01/15

イギリス料理はまずいのか

冬休みのことだが,イギリス人の言語研究者の友人とemailを交換していた.そこで,今,私が「言語学を教えているのか」と聞かれたのだが,私は正直に

「英語で,いかにUKの食事がひどいのかということを日本の若い女の子たちに伝えているよ」

という返事を返したのである.

彼の返信にはこうあった.

「いやいや,彼女たちが実際にUKに来てみて,イギリス料理を食べてみると,意外にまずくないと思うかもしれないじゃないか.それに,仮に評判通りまずかったとしても,話のタネが1つ増えることになる.こんなにハッピーな体験は他にはない」と.

なるほど.

そもそも,なぜゆえにイギリス料理はまずいという評判が確立しているのであろうか.この「イギリス料理はまずい」という命題は,何せ,食べ慣れていない外国人が言うのならまだしも,当の本人であるイギリス人たちが認める事実でもあるのである.

この理由はまず,イギリス料理を作る際の秘訣にあると思う.和食を作るときの「さしすせそ」ではないが,イギリス料理を作るときには3つの秘訣があるとされる.それを列挙すると以下のものになる.

・煮過ぎる

・焼き過ぎる

・揚げ過ぎる

の3点である.純粋な,そして伝統的なイギリス料理はこの3つの技法に裏打ちされているのである.

彼らが野菜を煮る時には,常にくたくたになるまで煮る.本当に煮る.彼らに煮込み野菜や蒸し野菜を作らせると,野菜が原形を留めなくなるまで火を通すことに全身全霊を傾けているかのようである.

また,彼らが食材に火を通すときには,常に表面が真っ黒にならないと気が済まないようなのである.

「イギリスに行ったときに,黒焦げのソーセージを出されたことがある」って?それは他でもない,正当なイギリス料理なのである.心配ない.もしあなたがそのような体験をしたことがあるのなら,あなたはホスピタリティーに溢れるイギリス人によって,正統派のイギリス料理を出された経験があるということなのである.誇りを持っていい.

また,最後の揚げ過ぎるについてだが,これには2つの意味がある.もちろん,衣が堅くなり,黒くなるまでとことん油を通すという意味もあるのだが,これにはいくらなんでもいろんな食材を揚げ過ぎなのではないかという守備範囲の広さも含まれる.

例えば,スコットランドなんかでは,なんとピザを揚げるという料理があるのである.サッカーファンなら,スコットランド対イングランドの国際試合で,スコットランドのサポーターがイングランドチームに向かって,「てめえらのピザなんか揚げてやる!」という声を張り上げるということを聞いたことはないだろうか.これは,スコットランド人たちによる,揚げ物に対する決死の覚悟がないのだというイングランド人に対する非難でもある.

また,スコットランドつながりで言えば,マーズ・バーも忘れてはならない.

日本人にわかりやすく言えば,スニッカーズのようなチョコレートのスナックバーに衣をつけて揚げる料理ということになる.

山で遭難したときには心強い味方になるだろうが,こんな物を常食としていては身体がいくらあっても足りないと,栄養学を学んでいなくても容易に分かるだろう.このマーズ・バーはイングランド人に非難されたことによって,根強くスコットランド人たちの心の拠り所となってしまった.彼らは,イングランド人が否定する物ならなんでも肯定してしまおうという悲しい性を背負って生きているのである.

そして何より,揚げ物と言って忘れてはならないのはフィッシュ・アンド・チップスの存在である.魚の揚げ物にフライドポテトがついていると言えば,なんだかおいしそうに聞こえるが,これは元々労働者の食べ物であり,安くてカロリーが高くて,それでいて腹持ちがよくなくてはならないという条件がついている.だから,実はかなり「ディープ」な食べ方がある.チップ・バティというのがあって,要するにチップスをパンに挟み,バターを塗って食べるという食べ方があるのである.

私なんぞは聞いているだけで胸焼けがしそうなのであるが,彼らイギリス人たちはこれがエネルギーの源なのだと信じて止まず,とてもおいしそうに食べている.きっと,胃袋の構造が東アジアの日本人である私とそもそも異なる構造を取っているに違いないと信じるに足る経験的証拠である.

また,イギリス料理には味が付いていない.これは,食べる人たちによって味覚に差があるということを尊重したためである.よって,イギリスの伝統的な食事(例えばパブとか)ができる場所の料理には基本的に味が付いていない.テーブルには塩,胡椒,モールトビネガー,そしてブラウンソースが常備してあるのが基本である.自分が好きなように味付けしてから食べるのである.

そして,信じがたいことに,イギリス料理は非常に栄養価が高く,バランスが取れている.

例えば,フィッシュ・アンド・チップスにはマッシー・ピーという潰したエンドウ豆がついている.エンドウ豆の栄養価に関して,疑問を持つ栄養士は日本にもいまい.

また,ロンドン名物うなぎのゼリー寄せというものもある.

日本のように蒲焼きにすれば素晴らしく美味であるウナギも,イギリス人の手にかかれば,とりあえず口の中に入ればよいという栄養補助食品となってしまう.

これは,テームズ川で取れたウナギを煮込んでゼリー寄せにしただけという伝統的なイギリス料理で,味も何もついていない.ご存知の通り,ウナギは栄養価に優れた食べ物だが,元々泥臭い川に住んでいることが多いので,単なるゼリー寄せは泥臭い物体以外の何者でもない.アングロサクソンは,そもそも栄養が取れて,身体と脳が機能すればそれでよかったのである.大英帝国を支えた基本は,食におぼれている暇があれば,他国を侵略することを考えよという鍛錬に支えられることによって育まれたのである.これは,ローマ帝国以後のパっとしないイタリアと比べると,その差は歴然である.

食におぼれたイタリア人は結局,ローマ帝国以後に世界の覇権を取ったことはなかったではないか.

というわけで,イギリス人は,食事に注ぐ労力を他の面に注いできたため,料理を向上させようという気持ちになれなかっただけなのだ.

世の中,政治的な理由で人や民族や国家に対して否定的な言葉を使わないようにしようという運動もあるではないか.

今後は,「イギリス料理はまずい」などと言うのではなくて,「イギリス料理は個性的だ」と言うことにしようではないか.なんなら,「とても,非常に」といった強意の言葉を含めてもいいのではないだろうか.

2013/01/11

体罰は指導ではない

桜宮高校で体罰が原因で自殺した高校生のニュースが話題になっている.

一応,高校という現場をちょっと知っている立場の人間なので,正直なことを言ってしまうと.

体罰というのはまだまだ存在しています.(ついでに言うと,セクハラというやつも)

たぶん,全国の高校も似たりよったりだと思うのだけれど,スポーツが強い高校,特に桜宮のように体育科があるような所だとなおさら.

まず,こういう高校は中学から有望な選手たちを連れてくるので,中学とパイプができます.それで,こういうスポーツをやっている人たちは特待で大学や就職を狙っているという実情があります.

そういう立場で入部しているので,高校生たちは安易にクラブを辞めるわけにはいかないし(桜宮の場合,単位制になっているのでなおさら),転校することもできません.

がんじがらめにしているわけですね.

こんな状態なので,クラブ顧問はお山の大将であることが多く,特に体育教師という生き物は脳みそも筋肉でできているような人たちが多いので,けっこう好き勝手やっています.

もちろん,素晴らしい体育教師も少なからずいますが,とんでもない輩もかなり多いです.

はっきり言わせてもらいますが,体罰による効果的な教育というものはないと思う.

コーチないしは監督という立場の人間が選手に手を挙げる理由は,そもそも指導方法が分からないので暴力に訴えているか,自分の気分の向くまま振る舞っているかのどちらかでしかない.体罰をふるう人間は,単に指導力が足りていないだけのことなのである.

試合中にミスをしたからといって,手を挙げることによって,ミスが減るということもない.

選手はミスをしてはいけないと思って,思い切ったプレーができなくなってしまい,萎縮するだけの話である.

さらにはスポーツそのものを嫌ってしまうことにもなりかねない.

自分の絶対的な権力を誇示することによってしか,自分の価値を確認できない人間に一体何が指導できるというのだろうか.

もちろん,こういう絶対的な立場を誇示して傲慢に振る舞う例は実際にいくつか見聞きしているし,女子部の顧問であれば明らかなセクハラ行為をやっている人も珍しくない.

直近でも,やたらと「おさわり」をしてみたり,「根性があれば生理も止まる」とか言う人が近場にいました(生徒さんたちから聞いた話なので,実際に現場にいたわけではないのですが).

実は2ヶ月だけとある高校の女子バレー部の顧問をやったこともあるのだけれど,その際にも周囲のバレー部の顧問の先生の振る舞いに驚かされることが多々ありました.

「お前,単に女子高生の身体に触りたいだけやろ」

という行為をやっている人もいましたし,何よりびっくりしたのが,試合中にミスをした選手に怒鳴り散らし,椅子を蹴っ飛ばし,胸ぐらをつかんで,バレーボールを何度もぶつけたり,「帰れ!顔も見たないわ!etc etc」と罵ったりというタイプの監督を3校で見たこともありました.

大阪の高校の女子バレーでは,試合の後で相手の部員さんたちに囲まれ,挨拶されて,その後,アドバイスをしたり,コメントをしたりすることがあるのだけれど,私は積極的に相手(自分のところもだけど)のいいところを褒め,特にミスをして怒られていた選手を集中的にケアしたりしたことがあります(それで,泣きつかれたりするので,それをなだめたりもします.まぁ,10代の子供さんなんですし).

これはもちろん,「いい人と思われたい」とかいう邪心ではなくて,その手の体罰を受けていた人たちにバレーボールを嫌いになってほしくなかったというのが一番にあります.

「怒られ役」だの何だのと言われますが,この手の体罰を集中的に受ける人たちは,基本,優れた素質の持ち主であることは多いのです.「体罰をするのは期待の表れ」とかいう弁明も耳にしますが,確かにこういった人たちは「何か」を持っていることが多い.

そういった素質のある人たちが潰されることの方が私には耐えられなかったし,何よりスポーツを好きでいてほしかったのです.

アメリカに行った時にちょっと議論したことがありますが,確かに日本人はスポーツを楽しむということが苦手なようです.部活動はあくまで,指導と教育の一環で,そこでは楽しんだり笑ったりすることは御法度で,決してplayするわけではないんですよね.よく考えたらおかしな話です.

スポーツを楽しむことは罪悪で,苦しみの中にこそ喜びが生まれるという軍隊教育の一環なのかもしれない.

ただ,体罰が指導の効果的な方法の一つであるという感覚は,日本の「教育」に根付いている節があるので,これを改善していくことはけっこう難しいでしょうね.

高校野球では体罰等をしないということで有名な,大阪桐蔭の西谷監督さんのような人がいますが,こういった人たちが結果を出していくことによって,事態はちょっとづつ上向いていくかもしれません.

2013/01/06

レ・ミゼラブル

久々に「絶対に観る」と決めて観てきた映画でした.

キャストを見ると蒼々たる面子のように見えますが,基本的に全員オーディションをして決定したらしく,ラッセル・クロウが歌の面で不安があったので落とされそうだったとか,アン・ハサウェイが並々ならぬ意気込みを持ってオーディションに臨んだという話は凄みがありました.

どうもファンテーヌというのは,舞台女優だった母親がかつて演じたことのあった役柄であったらしく,オーディションの最終テスト前には取り乱して泣き出してしまったとか,悲壮感を漂わせるために10キロ減量したとか,役柄に合わせて大胆に髪を切ってしまうとか(売春街に売り飛ばされた時に,髪を売るシーンがある).

監督のトム・フーパーも言っていましたが,この作品はミュージカルを基にした映画なので,台詞の大半が歌という形になっています.

レ・ミゼラブルに触れるのが,この映画が初めてという人にとってはちょっと奇妙に感じられるかもしれません.しかし,ミュージカルのレ・ミゼラブルは,作品全体を通して楽曲が演奏され,それだけで一つの音楽という側面があるので,その部分をなんとか維持したかったという工夫なのではないでしょうか.その意図は外していなかったのではないかと思います.

ストーリーのあるボーカル付きのオーケストラと言えば,納得してもらえるでしょうか.

基となったミュージカルの原形を維持し,それが映像化されることによって,いろいろな側面も見えてきました.

ミュージカルは舞台なので,バリケードを除いてそこまで精巧なセットが組み立てられているわけではありません.ですから,観客はある程度Les Mis(以下,このように略します)のストーリーを知っておかないとわかりにくいという部分もあります.

一方で,ストーリーが頭に入っていれば,後は役者の演技力と観客の想像力を駆使することによって,当時の映像を自分の頭の中で構築するという楽しみもあります.そういう部分では,音楽と歌に依る比重が非常に大きいのがミュージカル.これはこれでそういう良さがある.

一方で,映画は全てが映像化できてしまうので,監督の映像解釈がそのままスクリーンに投影されることになる.つまり,大多数のLes Misファンの頭の中で作られた映像と期待に応えなければならないという使命を監督は背負っている.私に関して言えば,その感覚は完全に一致していました.また,ファンテーヌが出てくるシーンの悲壮感に関して言えば,想像を遙かに超えている部分があり,「圧巻」という言葉がよく似合う.

25周年記念コンサートのDVDは持っていますが(映画を観たその日にまた見直してみた),ファンテーヌが髪を売るシーンはありますが,歯を抜かれるシーンはありませんでした.ただ,これは原作の小説(iBooksで英語版が無料で手に入る)には出てくるシーンのようです.

このシーンを取り入れることで,ファンテーヌの置かれた境遇を強く観客に印象づけることになります.その後に,I dreamt a dreamをハサウェイが歌うシーンが出てきます.テレビCMでもこの予告編が流れますが,監督がこのシーンを切り取ったのも納得.

それと,映画ならではのシーンとして,コゼット,マリウス,エポニーヌの三角関係における手紙の存在も見事でした.コゼットがエポニーヌにマリウス宛の手紙を託した後という絶妙なタイミングでone day moreが流れるのですが,この3人にジャン・バルジャンが加わって,4人それぞれの心情に合った歌詞になっています.こういった「遊び」の部分を見るにつけ,トム・フーパーがかなりレ・ミゼラブルを勉強してきたのだということを思い知らされます.ミュージカルに対するレスペクトが垣間見られたと言っていいのではないでしょうか.

というわけで,いろいろと余韻に浸りたい映画でした.もう一回観に行ってもいいかな.