2013/01/15

イギリス料理はまずいのか

冬休みのことだが,イギリス人の言語研究者の友人とemailを交換していた.そこで,今,私が「言語学を教えているのか」と聞かれたのだが,私は正直に

「英語で,いかにUKの食事がひどいのかということを日本の若い女の子たちに伝えているよ」

という返事を返したのである.

彼の返信にはこうあった.

「いやいや,彼女たちが実際にUKに来てみて,イギリス料理を食べてみると,意外にまずくないと思うかもしれないじゃないか.それに,仮に評判通りまずかったとしても,話のタネが1つ増えることになる.こんなにハッピーな体験は他にはない」と.

なるほど.

そもそも,なぜゆえにイギリス料理はまずいという評判が確立しているのであろうか.この「イギリス料理はまずい」という命題は,何せ,食べ慣れていない外国人が言うのならまだしも,当の本人であるイギリス人たちが認める事実でもあるのである.

この理由はまず,イギリス料理を作る際の秘訣にあると思う.和食を作るときの「さしすせそ」ではないが,イギリス料理を作るときには3つの秘訣があるとされる.それを列挙すると以下のものになる.

・煮過ぎる

・焼き過ぎる

・揚げ過ぎる

の3点である.純粋な,そして伝統的なイギリス料理はこの3つの技法に裏打ちされているのである.

彼らが野菜を煮る時には,常にくたくたになるまで煮る.本当に煮る.彼らに煮込み野菜や蒸し野菜を作らせると,野菜が原形を留めなくなるまで火を通すことに全身全霊を傾けているかのようである.

また,彼らが食材に火を通すときには,常に表面が真っ黒にならないと気が済まないようなのである.

「イギリスに行ったときに,黒焦げのソーセージを出されたことがある」って?それは他でもない,正当なイギリス料理なのである.心配ない.もしあなたがそのような体験をしたことがあるのなら,あなたはホスピタリティーに溢れるイギリス人によって,正統派のイギリス料理を出された経験があるということなのである.誇りを持っていい.

また,最後の揚げ過ぎるについてだが,これには2つの意味がある.もちろん,衣が堅くなり,黒くなるまでとことん油を通すという意味もあるのだが,これにはいくらなんでもいろんな食材を揚げ過ぎなのではないかという守備範囲の広さも含まれる.

例えば,スコットランドなんかでは,なんとピザを揚げるという料理があるのである.サッカーファンなら,スコットランド対イングランドの国際試合で,スコットランドのサポーターがイングランドチームに向かって,「てめえらのピザなんか揚げてやる!」という声を張り上げるということを聞いたことはないだろうか.これは,スコットランド人たちによる,揚げ物に対する決死の覚悟がないのだというイングランド人に対する非難でもある.

また,スコットランドつながりで言えば,マーズ・バーも忘れてはならない.

日本人にわかりやすく言えば,スニッカーズのようなチョコレートのスナックバーに衣をつけて揚げる料理ということになる.

山で遭難したときには心強い味方になるだろうが,こんな物を常食としていては身体がいくらあっても足りないと,栄養学を学んでいなくても容易に分かるだろう.このマーズ・バーはイングランド人に非難されたことによって,根強くスコットランド人たちの心の拠り所となってしまった.彼らは,イングランド人が否定する物ならなんでも肯定してしまおうという悲しい性を背負って生きているのである.

そして何より,揚げ物と言って忘れてはならないのはフィッシュ・アンド・チップスの存在である.魚の揚げ物にフライドポテトがついていると言えば,なんだかおいしそうに聞こえるが,これは元々労働者の食べ物であり,安くてカロリーが高くて,それでいて腹持ちがよくなくてはならないという条件がついている.だから,実はかなり「ディープ」な食べ方がある.チップ・バティというのがあって,要するにチップスをパンに挟み,バターを塗って食べるという食べ方があるのである.

私なんぞは聞いているだけで胸焼けがしそうなのであるが,彼らイギリス人たちはこれがエネルギーの源なのだと信じて止まず,とてもおいしそうに食べている.きっと,胃袋の構造が東アジアの日本人である私とそもそも異なる構造を取っているに違いないと信じるに足る経験的証拠である.

また,イギリス料理には味が付いていない.これは,食べる人たちによって味覚に差があるということを尊重したためである.よって,イギリスの伝統的な食事(例えばパブとか)ができる場所の料理には基本的に味が付いていない.テーブルには塩,胡椒,モールトビネガー,そしてブラウンソースが常備してあるのが基本である.自分が好きなように味付けしてから食べるのである.

そして,信じがたいことに,イギリス料理は非常に栄養価が高く,バランスが取れている.

例えば,フィッシュ・アンド・チップスにはマッシー・ピーという潰したエンドウ豆がついている.エンドウ豆の栄養価に関して,疑問を持つ栄養士は日本にもいまい.

また,ロンドン名物うなぎのゼリー寄せというものもある.

日本のように蒲焼きにすれば素晴らしく美味であるウナギも,イギリス人の手にかかれば,とりあえず口の中に入ればよいという栄養補助食品となってしまう.

これは,テームズ川で取れたウナギを煮込んでゼリー寄せにしただけという伝統的なイギリス料理で,味も何もついていない.ご存知の通り,ウナギは栄養価に優れた食べ物だが,元々泥臭い川に住んでいることが多いので,単なるゼリー寄せは泥臭い物体以外の何者でもない.アングロサクソンは,そもそも栄養が取れて,身体と脳が機能すればそれでよかったのである.大英帝国を支えた基本は,食におぼれている暇があれば,他国を侵略することを考えよという鍛錬に支えられることによって育まれたのである.これは,ローマ帝国以後のパっとしないイタリアと比べると,その差は歴然である.

食におぼれたイタリア人は結局,ローマ帝国以後に世界の覇権を取ったことはなかったではないか.

というわけで,イギリス人は,食事に注ぐ労力を他の面に注いできたため,料理を向上させようという気持ちになれなかっただけなのだ.

世の中,政治的な理由で人や民族や国家に対して否定的な言葉を使わないようにしようという運動もあるではないか.

今後は,「イギリス料理はまずい」などと言うのではなくて,「イギリス料理は個性的だ」と言うことにしようではないか.なんなら,「とても,非常に」といった強意の言葉を含めてもいいのではないだろうか.

2013/01/11

体罰は指導ではない

桜宮高校で体罰が原因で自殺した高校生のニュースが話題になっている.

一応,高校という現場をちょっと知っている立場の人間なので,正直なことを言ってしまうと.

体罰というのはまだまだ存在しています.(ついでに言うと,セクハラというやつも)

たぶん,全国の高校も似たりよったりだと思うのだけれど,スポーツが強い高校,特に桜宮のように体育科があるような所だとなおさら.

まず,こういう高校は中学から有望な選手たちを連れてくるので,中学とパイプができます.それで,こういうスポーツをやっている人たちは特待で大学や就職を狙っているという実情があります.

そういう立場で入部しているので,高校生たちは安易にクラブを辞めるわけにはいかないし(桜宮の場合,単位制になっているのでなおさら),転校することもできません.

がんじがらめにしているわけですね.

こんな状態なので,クラブ顧問はお山の大将であることが多く,特に体育教師という生き物は脳みそも筋肉でできているような人たちが多いので,けっこう好き勝手やっています.

もちろん,素晴らしい体育教師も少なからずいますが,とんでもない輩もかなり多いです.

はっきり言わせてもらいますが,体罰による効果的な教育というものはないと思う.

コーチないしは監督という立場の人間が選手に手を挙げる理由は,そもそも指導方法が分からないので暴力に訴えているか,自分の気分の向くまま振る舞っているかのどちらかでしかない.体罰をふるう人間は,単に指導力が足りていないだけのことなのである.

試合中にミスをしたからといって,手を挙げることによって,ミスが減るということもない.

選手はミスをしてはいけないと思って,思い切ったプレーができなくなってしまい,萎縮するだけの話である.

さらにはスポーツそのものを嫌ってしまうことにもなりかねない.

自分の絶対的な権力を誇示することによってしか,自分の価値を確認できない人間に一体何が指導できるというのだろうか.

もちろん,こういう絶対的な立場を誇示して傲慢に振る舞う例は実際にいくつか見聞きしているし,女子部の顧問であれば明らかなセクハラ行為をやっている人も珍しくない.

直近でも,やたらと「おさわり」をしてみたり,「根性があれば生理も止まる」とか言う人が近場にいました(生徒さんたちから聞いた話なので,実際に現場にいたわけではないのですが).

実は2ヶ月だけとある高校の女子バレー部の顧問をやったこともあるのだけれど,その際にも周囲のバレー部の顧問の先生の振る舞いに驚かされることが多々ありました.

「お前,単に女子高生の身体に触りたいだけやろ」

という行為をやっている人もいましたし,何よりびっくりしたのが,試合中にミスをした選手に怒鳴り散らし,椅子を蹴っ飛ばし,胸ぐらをつかんで,バレーボールを何度もぶつけたり,「帰れ!顔も見たないわ!etc etc」と罵ったりというタイプの監督を3校で見たこともありました.

大阪の高校の女子バレーでは,試合の後で相手の部員さんたちに囲まれ,挨拶されて,その後,アドバイスをしたり,コメントをしたりすることがあるのだけれど,私は積極的に相手(自分のところもだけど)のいいところを褒め,特にミスをして怒られていた選手を集中的にケアしたりしたことがあります(それで,泣きつかれたりするので,それをなだめたりもします.まぁ,10代の子供さんなんですし).

これはもちろん,「いい人と思われたい」とかいう邪心ではなくて,その手の体罰を受けていた人たちにバレーボールを嫌いになってほしくなかったというのが一番にあります.

「怒られ役」だの何だのと言われますが,この手の体罰を集中的に受ける人たちは,基本,優れた素質の持ち主であることは多いのです.「体罰をするのは期待の表れ」とかいう弁明も耳にしますが,確かにこういった人たちは「何か」を持っていることが多い.

そういった素質のある人たちが潰されることの方が私には耐えられなかったし,何よりスポーツを好きでいてほしかったのです.

アメリカに行った時にちょっと議論したことがありますが,確かに日本人はスポーツを楽しむということが苦手なようです.部活動はあくまで,指導と教育の一環で,そこでは楽しんだり笑ったりすることは御法度で,決してplayするわけではないんですよね.よく考えたらおかしな話です.

スポーツを楽しむことは罪悪で,苦しみの中にこそ喜びが生まれるという軍隊教育の一環なのかもしれない.

ただ,体罰が指導の効果的な方法の一つであるという感覚は,日本の「教育」に根付いている節があるので,これを改善していくことはけっこう難しいでしょうね.

高校野球では体罰等をしないということで有名な,大阪桐蔭の西谷監督さんのような人がいますが,こういった人たちが結果を出していくことによって,事態はちょっとづつ上向いていくかもしれません.

2013/01/06

レ・ミゼラブル

久々に「絶対に観る」と決めて観てきた映画でした.

キャストを見ると蒼々たる面子のように見えますが,基本的に全員オーディションをして決定したらしく,ラッセル・クロウが歌の面で不安があったので落とされそうだったとか,アン・ハサウェイが並々ならぬ意気込みを持ってオーディションに臨んだという話は凄みがありました.

どうもファンテーヌというのは,舞台女優だった母親がかつて演じたことのあった役柄であったらしく,オーディションの最終テスト前には取り乱して泣き出してしまったとか,悲壮感を漂わせるために10キロ減量したとか,役柄に合わせて大胆に髪を切ってしまうとか(売春街に売り飛ばされた時に,髪を売るシーンがある).

監督のトム・フーパーも言っていましたが,この作品はミュージカルを基にした映画なので,台詞の大半が歌という形になっています.

レ・ミゼラブルに触れるのが,この映画が初めてという人にとってはちょっと奇妙に感じられるかもしれません.しかし,ミュージカルのレ・ミゼラブルは,作品全体を通して楽曲が演奏され,それだけで一つの音楽という側面があるので,その部分をなんとか維持したかったという工夫なのではないでしょうか.その意図は外していなかったのではないかと思います.

ストーリーのあるボーカル付きのオーケストラと言えば,納得してもらえるでしょうか.

基となったミュージカルの原形を維持し,それが映像化されることによって,いろいろな側面も見えてきました.

ミュージカルは舞台なので,バリケードを除いてそこまで精巧なセットが組み立てられているわけではありません.ですから,観客はある程度Les Mis(以下,このように略します)のストーリーを知っておかないとわかりにくいという部分もあります.

一方で,ストーリーが頭に入っていれば,後は役者の演技力と観客の想像力を駆使することによって,当時の映像を自分の頭の中で構築するという楽しみもあります.そういう部分では,音楽と歌に依る比重が非常に大きいのがミュージカル.これはこれでそういう良さがある.

一方で,映画は全てが映像化できてしまうので,監督の映像解釈がそのままスクリーンに投影されることになる.つまり,大多数のLes Misファンの頭の中で作られた映像と期待に応えなければならないという使命を監督は背負っている.私に関して言えば,その感覚は完全に一致していました.また,ファンテーヌが出てくるシーンの悲壮感に関して言えば,想像を遙かに超えている部分があり,「圧巻」という言葉がよく似合う.

25周年記念コンサートのDVDは持っていますが(映画を観たその日にまた見直してみた),ファンテーヌが髪を売るシーンはありますが,歯を抜かれるシーンはありませんでした.ただ,これは原作の小説(iBooksで英語版が無料で手に入る)には出てくるシーンのようです.

このシーンを取り入れることで,ファンテーヌの置かれた境遇を強く観客に印象づけることになります.その後に,I dreamt a dreamをハサウェイが歌うシーンが出てきます.テレビCMでもこの予告編が流れますが,監督がこのシーンを切り取ったのも納得.

それと,映画ならではのシーンとして,コゼット,マリウス,エポニーヌの三角関係における手紙の存在も見事でした.コゼットがエポニーヌにマリウス宛の手紙を託した後という絶妙なタイミングでone day moreが流れるのですが,この3人にジャン・バルジャンが加わって,4人それぞれの心情に合った歌詞になっています.こういった「遊び」の部分を見るにつけ,トム・フーパーがかなりレ・ミゼラブルを勉強してきたのだということを思い知らされます.ミュージカルに対するレスペクトが垣間見られたと言っていいのではないでしょうか.

というわけで,いろいろと余韻に浸りたい映画でした.もう一回観に行ってもいいかな.