2013/04/24

趣味の持てない男

UK時代の友人で,近場の難産(当て字)にいる友人と久しぶりに会ってきました.

まずびっくりしたのが,彼がポルシェのオープンカーに乗ってきたということ.(ボクスターかな?)

おぉ.

さらに2台目の車として,クラシックカーも所有していました.

私も男なので,少なからずこれらの車には興味があるし,見ていて楽しかったです.

しかし,買う気にはならん.絶対...

まず,車を2台買うということがありえない.

私のような俗物根性丸出しの人間は,駐車場料金が2倍かかるというのが話にならないし,すぐに (1) 任意保険が高い,(2) 燃費が悪い,(3) 荷物が載せにくいなど実用性に乏しい,(4) いくら屋根がかぶせられるとは言っても暑さ・寒さ・風・雨に弱い,といった現実計算を始めてしまうことになる.

実際,その車に乗せてもらったのだけれど,「寒い」という理由で屋根は閉めたままにしておいてもらった.「風は感じられない」かもしれないが,15-6度でオープンカーに乗る根性は私にはないのである.(アメリカでレンタカーを借りたときにオープンルーフの車にして走ったことはあるが,レンタカーで「遊ぶ」ことはしても自分の車として所有するというオプションとしては考えられないのである)

さらに,彼の家にはちゃんと温度管理のできる大きなワインセラーが2つと,その中にたくさんのワインがしまってあった.

私もワインは好きだし,よく飲んでいる(とは言っても,お酒自体,週に4回くらいしか飲んでいないのだが).それで,ワイン用のセラーを作ったが,イケアの棚をアレンジしただけのものである(手軽だが,これはこれで見栄えはいい).もちろん,電源なんかない.

それで,そこには現在ワインが9本とウイスキー(シーバスリーガル)が1本と,アマレットが1本あるだけである.

ワインは1本2000円もしないものだけである.(私基準で1500円以下が普通,1500円を超えると高級ワインなのだ)

しかし,奥さんの話によれば彼はよく4000-5000円のワインを買ってくるらしい.(焼酎なんかもいろいろ揃っている.森伊蔵とか)

好きに生きているなと思う.

本来,人間の趣味なんてものは,それが共有できない人には理解できないものだし,お金をつぎ込むことに対して躊躇はしない人も珍しくないんだと思う.

これはこれで,いい生き方なのではないのだろうか.

特に大学教員なんて,少々破天荒なところがあった方がおもしろい研究もできるものなのかもしれない.

一方,私という人間は結構みみっちい.

買うワインも安ければ,食事は相変わらず節約・ヘルシー志向だし(今日の献立はナスと豚バラ肉の味噌炒め,冷や奴の新タマネギ載せ,ほうれん草としめじのおろし和え,田舎汁(要するにけんちん汁の里芋抜き)).

車は型落ちで,ハッチバックが便利,しかし走るのもそれなりじゃないとイヤという理由でゴルフのコンフォートライン(GTIは高いし,燃費と税金が高い)だし(中途半端な奴である).

趣味はせいぜいバッティングセンター通いだが,つい先週,バッティンググローブが半額で買えたと喜んでいるし(今まで使っていたのが穴が開いてしまっていたのだ).

後は,勤務先の野球部の練習にちょっと参加させてもらって喜んでいるのと,ジムに通っていることくらいか.

なんと真面目でおもしろみのない人間なのであろうか.

って,別に否定的に考えているわけでもなくて,「そんなもんか」って感じでマイペースで生きているのだけれど.

2013/04/15

イマドキの大学生を見て思う

週6コマある授業のうち,5コマをこなしてきました.

学生さんの水準ですが,悪い意味で予想通りでした.外国語学部といえど,レベルとしては「こんなもの」なのかもしれません.

もう8年以上も前のことになってしまうのだけれど,一応,受験の最大手で予備校講師もやらせてもらっていたし,だいたい受験生レベルでどれくらいの学力があればどの程度の大学に受かるのかという目安は持っていたつもりです.

ここ10年くらいは,この程度の水準で推移していたのかもしれない.

まぁ,入り口の広がり自体はたいした問題でもなかったのだけれど,問題は大学で勉強するかどうか.

特に重要なのは,自分で勉強するかということである.このことが持つ意味は非常に大きい.

今日,オックスフォードを出た同僚のイギリス人と,うちの学生とオックスフォードやヨークの学生の違いについてちょっと長めに喋ったのだけれど,やはり「自分で勉強しない」という問題意識は共有していたようである.

オックスフォードではコレッジ制が確立されているので(ヨークはオックスフォードをモデルにしているので,わりと共通点がある),大学での勉強といえばチュートリアルが中心で,講義には数える程度しか出ないという人もよくいるのである.

チュートリアルでは,個人で読まなければならない本・論文とそれについてのエッセイが適宜課されるので,オックスフォードの学生がこなさなければならない分量は日本の大学生の比ではない.

人の話を聞いているだけでは何も身に付かないし,勉強なんて自分でするものであるという真理に,日本の大学生はさっさと気づくべきだと思う.

これは予備校にいた頃から感じていたことだけれど,日本ではどうも「教えを請う」ということに重きが置かれて,何かお偉いさんの話を聞いていればそれで偉くなれるという幻想が強く浸透しているように思える.

そして,この幻想は文科の人たちも強く抱いているようで,次から次へと授業回数を増やせというお達しはこの幻想に支えられているようである.

困ったものである.

まぁ,一部トップを除いた中堅私大の学生の水準なんて昔からこんなもんだったのかもしれない.いくらなんでも自分の日本の出身校と比べるのもフェアではないような気がする.

H大に入った頃,私はやたらと現代思想やら文学評論が好きで,『構造と力』や『罪と罰』といった小説を普通に読んでいるという価値観を共有できる友人がたくさんいたことに安心感のようなものを覚えた.そもそも,大学で英語学なるものをやろうと思ったきっかけの一つは池上嘉彦先生だし,池上先生の著作は日本語の文体が好きで,ほとんど読破している(今でも評論の日本語の文章はこの人のものが一番好きである.明快で文章にリズムというか一連の音楽が流れている感じがして,ついついマネをしたくなる).

この手の本を読んでいると,高校なんかでは変わり者扱いだったのだけれど,おそらくその手の変わった人たちが集まることが許されるのが大学という空間なのではないかと思う.そして,私が大学時代に特に刺激を受けた大学院の諸先輩方は,今では大学教員として活躍している人が多い.

当然といえば,当然なのかもしれない.(私もいつの間にやらそうなっているし)

後は,自分がどれだけの若者に,学問に目を向けさせられるかというのが今後の自分の仕事の一つなのかなと思う.(まぁ,自分もまだまだ勉強しないといけないことは自覚できているのだけれど)

2013/04/02

外国語の技法を身につけるということ

今度の職場は英語を専攻言語とする外国語学部なので,必然的に英語を身につけるということが求められるようになってくる.

文科省が「英語が使える日本人」とかいう戦略構想を発表してかれこれ10年以上にもなるし,外国語というものを身につけることの意義の一つについて考えてみたい.

1つだけ断っておくと,私は外国語能力というものは技量というか,スキルの一つのように考えている節があって,とりあえずスポーツのようにガンガン練習をしまくる必要があると思っています(その獲得の過程がどうだとか,UGが第二言語習得にどう関わってくるのかとか,そういう議論はさておき).

決まり文句なんかや,ある程度パターンの決まったやり取りなんかにしてもそうだし,特定の言い回しや発音・聴き取りについても,とにかく「やってみる」必要がかなりあると思います.(「中国人の部屋」の話とも関連するが,とりあえず言葉の掛け合いの意義についてはわかっていなくとも,技術として身に付ける部分というものはある).

もちろん,他方では,理屈である程度のことは理解しておいた方が身につきやすいということもあります.いわゆる,一般的な意味で言う「文法」というものです.

この手の理屈を踏まえて,練習を繰り返すことによって,インプットを増やしていき,慣れてきた頃にはアウトプットの練習も増やしていく,と.

その次のステップとして,母語である日本語と,外国語としての英語から見える世界の見え方と価値観の違いについても,いろいろと考える機会も持ってほしいなと思う.

どちらも人間言語なんだから共通する部分があるのももちろんだが,価値観や世界の分節の仕方が違えば,世界の見え方が変わることがある.日本語と日本人,そして日本という国を客観化して眺め,自己というものをより深く理解するための相対化する道具として外国語を眺めるということもしてほしいものだと私は思う.

日本語では使う言い回しを英語ではしなかったり,またその逆というものもある.

うちの大学では,在学生が専攻言語を使用して新入生の歓迎スピーチというものをするのだけれど,そのスピーチを聞いていて,こんなことを考えていました.

彼らは在校生代表ということもあって,スピーチの技術自体はなかなかのものだったのだけれど,その話す内容がどうにも深みがなくてがっかりしてしまいました.

昨今の現代国語や小論文の偏った教育の成果とも言えるのかもしれませんが,

「忘れられない貴重な経験・他では得られない貴重な体験をすることができました」

「人の絆の大切さが分かりました」

「異文化を理解することの大切さがわかりました」

「人の優しさ・思いやりをありがたく思いました」

「成長することの大切さを知りました」

その全てが曖昧模糊として「なんだかな」と思ってしまう.言っている本人が具体的にどういうことを言っているのかというイメージが湧いてこないし,何か言葉の一つ一つが宙に浮いているような感じがして,何か言葉の体温のようなものが感じられない気がする.

最近の高校ではこの種の決まり文句が散りばめられているかどうかで「文章力」なるものを評価しているようなので,この種の教育効果が出ているといえば,そういうことになるのかもしれません.

大学教員の立場から言わせてもらえれば,単にこの種の現代日本の教育成果を反映したような表現を単に無理やり英語に変換するのではなくて,様々な英語の用法・英語的な言い回しを吟味して,体温が感じられるような特定的・個別的・具体的な表現のスピーチをしてほしいな思います.

個人的には,体温が感じられるスピーチであれば,少々技法としての英語の技術が劣っていても魅力的に感じます.

2013/04/01

嘘つかない

えと,大学を移籍しました.

札幌という街も気に入っていたし,学生さんもかわいらしくて素敵な人たちが多くて,けっこう楽しく働いていたのだけれど,如何せん北海道という地は理論言語学が盛んとは言いがたいし,しかも大学業務が専門と離れすぎていたということもあって,所属が変わるということになりました.

今回は人口も多く,研究が盛んな地域の大学で,何せ専門科目を担当することになるので,いい機会ではあるのだけれど.

この3年間は,札幌でちょっと羽を伸ばしていたという感じだったのかもしれません.そのままゆっくりと年をとって埋もれていくというのも楽でよかったのかもしれませんが,言語学の女神様に「お前,もうちょっと研究せい」と言われたのだと思うことにします.

ちなみに今日は入学式だったのだけれど,式の受付の職員さんにも教員扱いしてもらえず,式場でも父兄の人たちが教職員の座席をいくつか占拠してしまっていたので,仕方なく立っていました.

最近の父兄さんはやりたい放題という感じですね.その辺は前任校もあまり変わらないのだけれど.

というわけで,大学の施設ですが,いろいろなものがハイテクでお洒落で,ちょっと戸惑っています.まぁ,前任校がそっけなさすぎだと言えば,その通りだったのかもしれないけれど(女子大なんだから,もうちょっとお洒落にしてもいいのではないかと思いますが,けっこう保守的な所なので,いろいろと難しいこともあるんですね).

それと,学長に新しい人が就任されたのだけれど,某有名なロシア文学の権威でした.そのうち個人的に話をする機会なんかも持ってみたいと思うのですが.

そんなこんなで,本格的に新しい職場で仕事が始まりました.