2013/04/15

イマドキの大学生を見て思う

週6コマある授業のうち,5コマをこなしてきました.

学生さんの水準ですが,悪い意味で予想通りでした.外国語学部といえど,レベルとしては「こんなもの」なのかもしれません.

もう8年以上も前のことになってしまうのだけれど,一応,受験の最大手で予備校講師もやらせてもらっていたし,だいたい受験生レベルでどれくらいの学力があればどの程度の大学に受かるのかという目安は持っていたつもりです.

ここ10年くらいは,この程度の水準で推移していたのかもしれない.

まぁ,入り口の広がり自体はたいした問題でもなかったのだけれど,問題は大学で勉強するかどうか.

特に重要なのは,自分で勉強するかということである.このことが持つ意味は非常に大きい.

今日,オックスフォードを出た同僚のイギリス人と,うちの学生とオックスフォードやヨークの学生の違いについてちょっと長めに喋ったのだけれど,やはり「自分で勉強しない」という問題意識は共有していたようである.

オックスフォードではコレッジ制が確立されているので(ヨークはオックスフォードをモデルにしているので,わりと共通点がある),大学での勉強といえばチュートリアルが中心で,講義には数える程度しか出ないという人もよくいるのである.

チュートリアルでは,個人で読まなければならない本・論文とそれについてのエッセイが適宜課されるので,オックスフォードの学生がこなさなければならない分量は日本の大学生の比ではない.

人の話を聞いているだけでは何も身に付かないし,勉強なんて自分でするものであるという真理に,日本の大学生はさっさと気づくべきだと思う.

これは予備校にいた頃から感じていたことだけれど,日本ではどうも「教えを請う」ということに重きが置かれて,何かお偉いさんの話を聞いていればそれで偉くなれるという幻想が強く浸透しているように思える.

そして,この幻想は文科の人たちも強く抱いているようで,次から次へと授業回数を増やせというお達しはこの幻想に支えられているようである.

困ったものである.

まぁ,一部トップを除いた中堅私大の学生の水準なんて昔からこんなもんだったのかもしれない.いくらなんでも自分の日本の出身校と比べるのもフェアではないような気がする.

H大に入った頃,私はやたらと現代思想やら文学評論が好きで,『構造と力』や『罪と罰』といった小説を普通に読んでいるという価値観を共有できる友人がたくさんいたことに安心感のようなものを覚えた.そもそも,大学で英語学なるものをやろうと思ったきっかけの一つは池上嘉彦先生だし,池上先生の著作は日本語の文体が好きで,ほとんど読破している(今でも評論の日本語の文章はこの人のものが一番好きである.明快で文章にリズムというか一連の音楽が流れている感じがして,ついついマネをしたくなる).

この手の本を読んでいると,高校なんかでは変わり者扱いだったのだけれど,おそらくその手の変わった人たちが集まることが許されるのが大学という空間なのではないかと思う.そして,私が大学時代に特に刺激を受けた大学院の諸先輩方は,今では大学教員として活躍している人が多い.

当然といえば,当然なのかもしれない.(私もいつの間にやらそうなっているし)

後は,自分がどれだけの若者に,学問に目を向けさせられるかというのが今後の自分の仕事の一つなのかなと思う.(まぁ,自分もまだまだ勉強しないといけないことは自覚できているのだけれど)

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