2013/04/02

外国語の技法を身につけるということ

今度の職場は英語を専攻言語とする外国語学部なので,必然的に英語を身につけるということが求められるようになってくる.

文科省が「英語が使える日本人」とかいう戦略構想を発表してかれこれ10年以上にもなるし,外国語というものを身につけることの意義の一つについて考えてみたい.

1つだけ断っておくと,私は外国語能力というものは技量というか,スキルの一つのように考えている節があって,とりあえずスポーツのようにガンガン練習をしまくる必要があると思っています(その獲得の過程がどうだとか,UGが第二言語習得にどう関わってくるのかとか,そういう議論はさておき).

決まり文句なんかや,ある程度パターンの決まったやり取りなんかにしてもそうだし,特定の言い回しや発音・聴き取りについても,とにかく「やってみる」必要がかなりあると思います.(「中国人の部屋」の話とも関連するが,とりあえず言葉の掛け合いの意義についてはわかっていなくとも,技術として身に付ける部分というものはある).

もちろん,他方では,理屈である程度のことは理解しておいた方が身につきやすいということもあります.いわゆる,一般的な意味で言う「文法」というものです.

この手の理屈を踏まえて,練習を繰り返すことによって,インプットを増やしていき,慣れてきた頃にはアウトプットの練習も増やしていく,と.

その次のステップとして,母語である日本語と,外国語としての英語から見える世界の見え方と価値観の違いについても,いろいろと考える機会も持ってほしいなと思う.

どちらも人間言語なんだから共通する部分があるのももちろんだが,価値観や世界の分節の仕方が違えば,世界の見え方が変わることがある.日本語と日本人,そして日本という国を客観化して眺め,自己というものをより深く理解するための相対化する道具として外国語を眺めるということもしてほしいものだと私は思う.

日本語では使う言い回しを英語ではしなかったり,またその逆というものもある.

うちの大学では,在学生が専攻言語を使用して新入生の歓迎スピーチというものをするのだけれど,そのスピーチを聞いていて,こんなことを考えていました.

彼らは在校生代表ということもあって,スピーチの技術自体はなかなかのものだったのだけれど,その話す内容がどうにも深みがなくてがっかりしてしまいました.

昨今の現代国語や小論文の偏った教育の成果とも言えるのかもしれませんが,

「忘れられない貴重な経験・他では得られない貴重な体験をすることができました」

「人の絆の大切さが分かりました」

「異文化を理解することの大切さがわかりました」

「人の優しさ・思いやりをありがたく思いました」

「成長することの大切さを知りました」

その全てが曖昧模糊として「なんだかな」と思ってしまう.言っている本人が具体的にどういうことを言っているのかというイメージが湧いてこないし,何か言葉の一つ一つが宙に浮いているような感じがして,何か言葉の体温のようなものが感じられない気がする.

最近の高校ではこの種の決まり文句が散りばめられているかどうかで「文章力」なるものを評価しているようなので,この種の教育効果が出ているといえば,そういうことになるのかもしれません.

大学教員の立場から言わせてもらえれば,単にこの種の現代日本の教育成果を反映したような表現を単に無理やり英語に変換するのではなくて,様々な英語の用法・英語的な言い回しを吟味して,体温が感じられるような特定的・個別的・具体的な表現のスピーチをしてほしいな思います.

個人的には,体温が感じられるスピーチであれば,少々技法としての英語の技術が劣っていても魅力的に感じます.

0 件のコメント:

コメントを投稿