2013/07/11

複雑な気分

うちの大学では留学の機会が多く,今日はたくさんの留学希望者の面接試験を行いました.

日本人って,本当に英語が苦手なんだなということを実感する機会を得たと共に,なんだか自分が今までやってきたことを否定されてきたような気分になりました.

まず,申請書に英語でエッセイが書かれてあったのだけれど,その内容がとにかくひどい.主語と述語が全く揃っていないものも多いし,だいたい動詞がない文も散見されるし,それにネイティブから見ればおかしな英語を地で行くような文章が多すぎる.少なくとも,この英作文力では,いいところの国立大学の入試は受からない.

それに,Paper-basedのTOEFLで(Paper-basedのものは既に廃止されていますが,Institution毎にある種の「模試」としてETSが提供してくれるので,今でも時々Paper-basedのものが幅を利かせています)500を越えれば「よいスコア」として評価するのも「なんだかな」という気分になってしまう.

面接は英語で行ったのだけれど,リスニング・スピーキング共に貧しい人たちが大半で,びっくりするのが,自分の留学したい先の大学がどの辺にあるのかわからない,そもそも海外への生き方がわからない,単位の取り方を知らない,どんな授業があるのか知らないというのがディフォールトであるということ.

他にも話を膨らませるために,最近読んだ本は何かと聞いてみると,「ない」というのが大半で,「もしドラ」というのを読んだが内容はよくわからないとか,最近気になったニュースはないかと聞いてみると,「ニュースは見ていない」という意見がほとんどで,唯一返ってきた反応が「芸人が自転車を盗んだetc」というだけのもの.

自分のホームタウンや日本の歴史の基礎を説明できる人間なんて皆無に近いし,そもそもどういうビジョンで留学するのかというのがさっぱりわからない.(「夢を叶えるため」とか「英語を使う仕事に就きたい」とか漠然と言われても,それ以上,話が膨らみそうにない)

こんなもんなんだろうか.

世代も違うし,そもそも大学が違うのかもしれないけれど,自分が交換留学というものを経験しているので,その際の試験とのギャップがありすぎて,どうも納得がいかない.

私の頃はComputer-basedのTOEFLが出始めで,Paper-basedのTOEFLもまだ有効スコアとしてカウントされるので,Paper-basedのTOEFLを受けた経験があるのだが,550点なんか問題外だった記憶がある.

そもそも,自分の所属学部の推薦を受けるのなら「640点を獲得しているのが当たり前」と,面接担当の社会言語学のS先生に言われ,620点ちょっとしかなかった私は随分とショックを受けた記憶がある.

なんでも前年に推薦を受けた人は645点あったのだそうで(1つ年上の美人だった.時々授業が被るので話したこともあったのだけれど),その前年も640点は越えていたとのこと.心機一転,留学直前にももう一度受験してみたけれど,スコアは大して変わらなかったと記憶している.

さらに,英語の口頭試験の前に,行き先の大学とその近辺,シアトルの情報やさらに大学の言語学科所属の研究者たちの研究領域や提供されている授業なんかもwebsiteで調べておいたのだけれど,口頭試験では,実際にめぼしい研究者の代表論文数点の内容について聞かれ,論文を読んでいなかった私はその質問に答えられなくて気まずい思いをしたことを記憶している.

たかだか学部生の交換留学に厳しい質問なのかもしれないが,今考えるとそれだけ期待してくれていたということもわかるし,そもそもS先生自体がすばらしい研究者だったので,こういう質問にも意義があったと私は思う.

「私の頃はこうだった.全く,今の若い者は」とか言い出すと,年寄りへの第一歩を踏み出したのだということがわかるのだけれど,でも留学するからにはそれなりの覚悟が必要なんじゃないかと思う.

ちょっと海外で英語の勉強をしてきたからと言って,「留学してきました〜」とかいうのはやっぱりおかしい.それに,自分としてもそれなりに学歴もTOEFLのスコアもあったが,やっぱりそれでもアメリカの授業(大学院含む)についていくのにはそれなりに苦労もあったし,それに知り合いの日本人の多くの英語力にも随分と驚かされた(帰国子女なんかも数人いたが).

これからは1人でも多くでいいから,「英語なんかできて当たり前.問題は海外で何をするかである」という意識を持った学生を輩出できればいいなと思った今日この頃である.

しかし,現任校はどうにも雑用が多い.

2013/07/10

人文系大学教員はドラマの素材になりうるか

半沢直樹という,銀行員を主役にしたドラマの視聴率がいいらしい.

シリアス系の社会ドラマといえば,華麗なる一族だとか,白い巨塔なんかもありましたよね.

ところで,大学教員の世界,特に,人文系の大学が舞台だとどんな話が作れるのだろうか.

「大学教授」という身分にしても,医学部のそれと,文学部や外国語学部の「大学教授」とは天と地の差がある.

ちょっと一部考えてみよう.

白い巨塔は,財前五郎が教授選を勝ち抜くべく,様々な政治的行動を行っていたが,人文系のそれで,その種の政治活動を行っている姿は想像しにくい.

まず,教授になったからといって,棒給表がちょっとよくなるだけの話なので,実は年ごとの昇級と大差がないという問題が挙げられる.

さらに,教授職になってしまうと,学部長,学科長,その他教務や入試関係の長にさせられたり,評議会のメンバーに入れられたり,雑用が増えるという事情があるのである.

研究室の長となって絶対的権力が握れる理系の実験系の先生方と違って,人文系は基本個人事業種なので,教授になっても特においしい思いに預かれるわけではないのである.

むしろ,この種の役職は避けたいものであって,なりたいものではないのである.

よっぽどの変人でない限り,学部長や学科長に進んでなってくれる人がいるのなら「どーぞ,どーぞ」というのが人文系の世界なのである.

責任や事務仕事が増える割に,給料は年間で10万円足してもらえるか,それ以下かというのが平均的な相場なので,誰もやりたがらないのである.

そんなことをしている暇があったら,研究していたいというのが本音なのではあるまいか(これは研究している人たちだけに当てはま,ってこれ以上は剣呑剣呑).

白い巨塔の医学部長をやりたがっていた鵜飼教授とは違うのである.

という事情もあって,教授に昇進できるのにしたがらない人もけっこうな数で存在します.

それに,学会の重鎮になりたいとかいう人も,たぶん,そんなに多くない(と思う).

日本医学界なんかと違って,N本E語学会だとか,日P言G学会の会長になったところで,実入りはない.単に雑用が増えるだけのことである.何せ,そもそも学会の存続そのものの財政状況が危ういのである.

製薬会社が営業で金や機器を回してくれるわけでもなければ,美人の営業がやってきて枕営業をするとか,そんなおいしいことは皆無なのである.いいとこ,書店の販売員さんに手提げ袋と教科書のリスト,それにボールペンとティッシュを渡してもらえるのが関の山なのだ.

というわけで,この種の役職を引き受けてくれる人たちは善意からやってくださっているだけのことであって,権力欲など皆無であると断言できる(と思う).

たぶん,政治活動なんかの入り込む余地はない.

というわけで,白い巨塔に見られたような権力の行方,人事の荒波というものを演出することは不可能なのである.

また,財前五郎は花森ケイ子という愛人を囲っていたが,そもそも人文系の学者は実入りがよくないので,愛人を囲う財力がないというのも問題である.

もちろん,スポンサーもない.

というわけで,新地の高級バーで飲み歩くようなお金もない.

学生時分,私はお師匠さんたちに,坂下(H大生ならわかる用語)に連れて行っていただいたことはあるが,新地まで行ったことは皆無である.

バーなどはせいぜいOルガンという300円のショットバーか,駅前のパチンコ屋の上にある喫茶店で地ビールを奢っていただいた程度のことである.(でも,これで別に満足でした)

となると,残された舞台は学内ということになるが,これも題材がない.

総回診などあるわけがないし(教授の授業に院生や助手が教室まで付き添えばいいか?).

学内の争いでありえるとすれば,雑用の押し付け合い(と無駄に雑用を作るとか)か,「あいつは研究していない」と愚痴ることくらいであろうか.

映える映像にはならなさそうである.

要するに,人文系の大学を舞台にした映像化は,筒井康隆著作の「文学部唯野教授」を原作に映画やドラマが作れるかという問題に限りなく近いものであって,3分コマーシャルにするのが関の山といったところになるのだ.

まぁ,実世界では波乱がない方が気楽でいいのかもしれないけれど.