2013/11/24

言葉でコミュニケーション

単なる印象論なのだけれど,最近の若い人たち(20歳前を想定)の傾向として,表面上は優しい,人の気持ちに踏みいってこない,自分の意見を表明しないというのがあるように思う.

ある意味では諍いを避けるためのコミュニケーションスタイルを身につけているという評価も出来るのだけれど,一方では最初から自分たちと価値観の合わない人たちとのコミュニケーションを拒否しているようにも思える.

彼らはわりと早い段階で,携帯電話という個人と個人を結ぶコミュニケーションツールを手にして育ってきているので,その手のツールを使いこなす技術には長けている.

メールだろうが,SNSだろうが,言葉を使ったコミュニケーション技術を利用してきているわりには,それらの使い方が巧みであるとは到底思えない.

それは,彼らのコミュニケーション形態が「同調」というスタイルで固定化されてしまっているからに他ならない.

男女差や年齢差もあるけれど,多かれ少なかれ,人は他者から同意を得ることに快感を覚える生物である.その種の傾向は,幼い子供たちと喋れば一目瞭然である.

twitterやline,メールなんかで誰かがつぶやいたことに関して,それに同意し,共感するということこそが彼らのコミュニケーションのやり方なのである.

そこには,異なる価値観が入る余地はない.外部の人間が彼らの「つぶやき」なるものを読んでみても,さっぱり理解できないというのがその証左である.

自分たちのグループのみで通用する言葉や絵文字のみで会話という名の同調行為を行っているので,自分たちとは異なる考え方や価値観を持っている人たちの存在は想定していないわけである.

そういった存在は無視することによって,常に自分たちの同調圧力に屈しない者たちの存在を受け入れないまま育ってきてしまっているのである.

その種の成長の仕方は,諍いを回避することができるものの,自分たちとは異なる考え方をする人たちとのコミュニケーション能力が養成されないまま大人になるという危険性もはらむことになる.

自分たちとは違う考え方をする人たちとコミュニケーションを取る場合,人は言葉(ないしは数学)という論理を媒介させる道具を駆使することになる.

時間と空間を超えて,他者とコミュニケーションを取る場合には,文章展開に論理がなければならないし,いろいろな想像力がかき立てられるようにできるだけ多くの具体例を頭に描かなければならない.

また,自分の思考回路を他者にたどってもらうための論理展開・思考展開を適切に組み立てねばならない.

そういった他者とのコミュニケーションは知的負荷を伴うため,めんどくささも伴うし,多くの誤解も招くし,決して心楽しい行為ではないのである.

他者とのコミュニケーションにおいて,多くの場合に対峙しなければならないことは,相互理解ではなく,コンフリクトを乗り越えるための妥協点を見つけることである.

受験生や大学生の文章を見ると,彼らはまるで金科玉条のように「異文化理解が大切,相互理解が大切,コミュニケーションが大切etc」という文面を,その意味も考えることなく書いていることに気づく.

彼らの文章展開(そこに論理はない)を大まかに要約するとこうである.

「○○で,海外の人たちと交流する機会を持ちました.そこで,私は異文化理解の大切さと絆(「キヅナ」とカタカナ表記になることも多い)の重要性について学びました」

というものである.読んでいて辟易するし,またかという気分になる.

それはまるで,できの悪い学芸会の水戸黄門を見せられたようなものなのだ.「はいはい,印籠を出しとけばいいんでしょー」という感想を持ってしまう.

彼らが高校という場所で,この手の内容のない文章をしこたま書かされていることはわかっている.そういった指導が指導要領にあるからなのか,教師の想像力が決定的に不足しているのか,単にいつまでたっても学生が書き続けてくるからなのか私にはわからない.

はっきり言えることは,基本的な思考力の作法が身についていない,また,文章を書くという行為が基本的には他人に同意してもらうことではなく,自分と異なる考えの人間に自分の思考法とそこに至ったプロセスを提示することであるということが身についていない人間には,異文化理解など到底及びもつかないということである.

自分の考えを,その理由も含めて自分の言葉で書いたという文章を1つでも多く読みたい.

これから大学生になる人たちには,そういった能力を身につけて欲しいと切に願う.